スケッチ

この前、ザッピングしていたら、NHK教育の「日本語なるほど塾」という番組で、ねじめ正一が、新作の詩の朗読をしていた。
正一少年が父親に連れられて後楽園球場に長嶋茂雄を見に行く。緊張していておしっこに行きたくなって、電車の途中の駅に降りてトイレに行くけれど、おしっこがでないということを繰り返す。後楽園球場について、試合の始まる前に長嶋がノックを受けて手をひらひらさせながら送球している様子を見ていると、おなかがごろごろ鳴って、トイレに行くと台風みたいにじゃーじゃーおしっこがでて。とそんな内容の詩だった。
正一少年の気持ちが実によく伝わってきた。自分も詩を書いてみたい、という気持ちになった。
といっても、ねじめ正一の詩は、ねじめ正一のキャラクターあっての詩だから、あんな詩は書けないし、自分に合っていない。
本棚を眺めていると、井伏鱒二「厄除け詩集」(講談社文芸文庫)(ISBN:4061962671)が目に入った。「逸題」や「按摩をとる」「春宵」のような詩が書きたい、と思った。

逸題
今宵は仲秋名月
初恋を忍ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で一人酒を飲む
春さん蛸のぶつ切りをくれえ
それも塩でくれえ
酒はあついのがよい
それから枝豆を一皿
ああ 蛸のぶつ切りは臍みたいだ
われら先ず腰かけに坐りなほし
静かに酒をつぐ
枝豆から湯気が立つ
今宵は仲秋名月
初恋を忍ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で一人酒を飲む

「春さん蛸のぶつ切りをくれえ/それも塩でくれえ」というところが好きだ。

按摩をとる
ここは甲州下部鉱泉の源泉館
その二階の一室である
御一泊は 一等四円五十銭
二等三円五十銭
三等二円五十銭と書いてある
私は右枕に寝ころんで
按摩に肩をもましてゐる
按摩は毛糸の袖なしを着て
ロイド眼鏡をかけてゐる
彼の目にはまつ毛も目蓋もない
その目はまるでコスモスの実の一粒である
私が「青い鳥」を朗読してゐると
しかしそのコスモスの実から
じつとり涙が出る

宿屋の値段表を読み上げるところ「御一泊は 一等四円五十銭/二等三円五十銭/三等二円五十銭と書いてある」が気に入っている。

春宵
大雅堂の主人
佐藤俊雄が溝に落ちた
―僕がうしろを振り向くと
忽焉として彼は消えてゐた―
やがて佐藤の呻き声がした
どろどろの汚水の溝であつた
彼は溝から這ひあがり
全くひどいですなあ
くさいなあと涙声を出した
それからしよんぼり立つてゐたが
ポケツトの溝泥を掴み出した
実にくさくて近寄れない
気の毒だとはいふものの
暫時は笑ひがとまらなかつた

これは、「全くひどいですなあ/くさいなあと涙声を出した」というところがいいと思う。
しかし、どうすれば、こんな詩が書けるようになるのだろうか。
観察眼を養わなければどうにもならない。まずは、日常のちょっとしたできごとのスケッチを描く練習から始めることにした。
昨日の日記(id:yagian:20041031#p1)や、今日の日記(id:yagian:20041101#p1)は、スケッチの練習のつもり。まだまだ詩にはほど遠い。
日記のつもりで書くと、どうしても説明が多くなる。徐々に不要な部分をそぎ落としていこう。日記だと、うねうねといろんなテーマが連なっていくような書き方をすることが多いけれど、詩であれば、一つの感情、一つの情景に絞り込んだ方がよさそうである。