靖国

靖国参拝に関する議論を読んでいると、賛成派、反対派の両方に対して、違和感を感じ共感できない。
たしかに、東京裁判は勝者が敗者を裁いたもので公正とは思えないし、靖国神社への首相の公式参拝は内政問題であって中国や韓国、北朝鮮の反対は内政干渉ではないかと思える。
しかし、だからといって、自分が靖国神社に参拝することはないし、首相が公式参拝することにも積極的に賛成できない。私自身、靖国神社については、もやもやとした違和感がぬぐえないし、そういう感覚を持っている人も多いのではないのだろうか。
靖国神社参拝の賛成派に問いたいのは、東京裁判が公正ではなく、それで太平洋戦争が決着したのではないとすれば、サンフランシスコ講和条約を締結して日本の独立が回復した後に、日本人自らの手で太平洋戦争についての決着をつけたのか、ということである。
太平洋戦争によって、日本人、外国人、軍人、非軍人を含めて悲惨な体験をした。そのことに対して、どこまでが法的な責任があるかはよくわからないけれど、少なくとも、当時の日本政府、日本軍の指導者層が大きな道義的な責任を負っているのは間違いない。道義的責任は、法的責任ではないから、誰かに強制されるのではなく、責任を負った者が自ら責任を果たさなければならないものである。
具体的に言おう。
東条内閣の閣僚であった岸信介は、いかに見識、能力が高かったとしても、あの戦争に関する道義的な責任を明らかにしないまま戦後総理大臣になったということ、戦争中に不正に蓄財した笹川良一児玉誉士夫が、戦後の保守政党のスポンサーとなって隠然とした権力を行使していたことには釈然としない。対外的な関係抜きに、純粋に国内の問題に限定したとしても、あの戦争の責任が取られているとは思えない。そして、昭和天皇には、法的責任はないにせよ、道義的責任があったと思う。ポツダム宣言の受諾に際して決断を下すことができたのであれば、自らの道義的責任を取るための決断を下すことはできたはずだが、道義的な責任をとったと言えるか。そして、それをなくして、日本の国民が自ら進んで靖国神社を参拝する気持ちになるのだろうか。
靖国神社への公式参拝を推進する論者は、神社で死者を祀ることに関して日本の伝統を強調することが多い。しかし、何を「伝統」と考えるかは、かなり難しい問題である。国民国家としての日本と神道を結びつけた国家神道は、明らかに明治時代が起源であり、日本の歴史という観点から見ればきわめて浅い伝統しか持っていない。招魂社、靖国神社も、もちろん明治時代に国家神道の一部を担う神社として創建されている。
京都に行くと、平安神宮という大きな神社がある。明治時代に創建された神社であるが、その朱色の巨大な鳥居を眺めていると、まだこなれていない、と思う。神社、寺院にも、ずいぶん血なまぐさい歴史を負っているものもたくさんある。しかし、その歴史から十分時間が経て、こなれている神社、寺院にお参りする時には、素直に手を合わせることができる。しかし、明治以降の国家神道の神社は、まだなまなましすぎて、素直に手を合わせる気持ちになれない。
柳田国男に「先祖の話」(筑摩書房 ISBN:4480750754)という本がある。これは、太平洋戦争末期、戦争の犠牲になった人たちの鎮魂をどうすべきか、という問題意識で書かれたものである。この本では、常民たちの伝統的な死生観を中心にした立場から書かれているから、イエと祖霊の関係、イエの祭祀を中心にして書かれており、招魂社、靖国神社についてはあまり触れられていない*1。私自身、そういったイエの祖霊の存在をリアルに信じている訳ではないけれど、正月や盆の行事をすることに抵抗はない。それは、十分に時間が経ており、こなれた伝統になっているからだと思う。一方、靖国神社については、まだ、先にも述べたように違和感、抵抗感がある。まだ、生々しすぎて、こなれていなのだろうと思う。
太平洋戦争のことは、まだ、簡単に割り切らない方がよいかもしれない。

*1:靖国神社柳田国男の関係について参考になりました。http://homepage3.nifty.com/bunmao/0415.htm