まなざし

しばらく前、生誕百年記念ということで、NHK−BSは成瀬巳喜男特集をやっていた。学生の頃、今はなき銀座並木座成瀬巳喜男を見たことを懐かしく思い出した。
成瀬映画には、当時の郊外の生活の様子が映し出されており、興味をそそられる。家から郊外電車の駅までの道路は舗装されておらず、雨が降ると泥道になって通勤がたいへんそうだ。主人公のサラリーマン役の上原謙は、おもちゃのような駅から、茶色の2両編成ぐらいの電車に乗り込む。奥さん役の高峯秀子が掃除をしている日本家屋の家には、間借り人も住んでいる。
それにしても、リアルタイムで、成瀬映画を見ていた人は、どのような感想を抱いていたのだろうか、不思議に思う。
彼の映画の登場人物は、おおむね、意志薄弱で、酷薄で、浅薄である。さまざまな問題が生じるが、それに正面から立ち向かうような人物はあらわれず、問題もあいまいに放置されたまま、映画は終わる。けっして成瀬映画をけなしているわけではなく、私自身、自分の情けなさと重ね合わせながら、おもしろく見ている。特に、本質的には何も解決しないラストは、漱石の小説のようでもあり、私は特に気に入っている。
しかし、映画を娯楽として見ていた同時代の人々は、こんなアンチクライマックス、アンチヒロイズムの映画をどのように楽しんでいたのだろうかと疑問に感じるのである。それだけ、映画の観客が成熟していたということかもしれない。小津安二郎溝口健二黒澤明成瀬巳喜男といった監督が活躍していた時代は、彼らの映画を受け入れる観客層が存在していたということかも知れない。
この成瀬映画の特集で、川端康成原作の「山の音」を見た。映画のラストシーンでは、原節子が義父の山村聰に、離婚する決意を告げて泣き崩れていたが、原作ではどうなっていたのか気になって、小説の方(新潮文庫 isbn:4101001111)を読み返してみた。勢いがついて、「雪国」(新潮文庫 isbn:4101001014)も読んでみた。
すでに多くの人が指摘していることだと思うけれど、川端康成の小説は視覚的で、映画化しやすいのだろうと思った。例えば、「雪国」で、雪国へ行く夜汽車に乗っている場面。

……ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。…向こう側の座席の女が写ったのだった。外は夕闇がおりているし、汽車のなかは明かりがついている。それで窓ガラスが鏡になる。けれども、スチイムの温みでガラスがすっかり水蒸気に濡れているから、指で拭くまでその鏡はなかったのだった。
 娘の片眼だけは反って異様に美しかったものの、島村は窓に寄せると、夕景色見たさという風な旅愁顔を俄づくりして、掌でガラスをこすった。
……
 鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えたほどだった。
……
 そういう時、彼女の顔のなかにともし火がともったのだった。この鏡の映像は窓の外のともし火を消す強さはなかった。ともし火は映像を消しはしなかった。そうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだった。しかし彼女の顔を光り輝かせるようなことはしなかった。冷たく遠い光であった。小さい瞳のまわりをぽうっと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮かぶ、妖しく美しい夜光虫だった。

美しい光景である。
曇っている窓ガラスを指で拭いたときに突然現れる眼。窓ガラスに映る女の顔と二重写しになるともしび。
引用では省略をしたけれど、この場面は窓ガラスに映る女について、純粋に視覚的要素に限定し、きわめて詳細に描写されている。
川端康成ノーベル文学賞を受賞した。その受賞に際しては、ペンクラブでの活動など政治的側面も関係したのだろうけれど、彼の作品が言語、文化の壁を越えて理解しやすい普遍性を持っていたのではないかと思う。
この引用した部分で表現されている美しさは、川端康成が視覚的に発見し、切り取った映像の美しさに依存している。そこには、言語そのものの美しさや、文化によって規定される意味といった要素が少ないように思われる。それだけに、他の言語に翻訳したとしても、表現された光景の美しさは、そのままの形で理解しうるのではないだろうか。