今弘法角栄伝説

新潟に出張で行ってきた。柏崎市に合併した旧西山町という町を自動車で通り抜けた。ここは、あの田中角栄の出身地である。
自動車を運転していた人が、車を止め、左側の家を見るようにと言った。その家の表札を見ると、田中直紀田中真紀子と二人の名前が並んでいた。有名人の家を眺めに行くなんて、メンフィスで観光バスに乗ってエルビス・プレスリーの家を見に行った時以来かもしれない。
西山町には、柏崎市から新潟市に抜ける国道116号線が走っている。三桁の番号の国道は、一桁や二桁の番号の国道に比べて、整備が進んでいないことが多い。山間の三桁国道には、二車線が確保されておらず対面交通が難しいことすらある。しかし、田中角栄の出身地の国道116号線は、片側2車線で中央分離帯まであり、とても三桁国道とは思えない道路である。
地元の人は、この国道116号線を「角栄道路」と呼んでいた。しばらく国道116号線を走ると、二車線の道路になった。地元の人は、「さすがに角さんもずっと四車線の道路にするのはあんまりと思ったかな」と言っていた。
確かに、田中角栄が地元の国道整備に影響力を及ぼした可能性は高いけれど、冷静に考えれば、確証があるわけではない。「角栄道路」と呼べるほど、田中角栄が主体的に働きかけたかどうかもわからない。一部分が二車線の道路になっている理由が「角さんもあんまりと思った」ということに至っては、まったくの憶測に過ぎない。
田中角栄には、このような角栄伝説と呼ぶべき、さまざまな伝説がある。
以前にこの日記(id:yagian:20050130)にも書いたが、神楽坂の一方通行が時間によって方向が変わるのは田中角栄が目白の田中邸から国会議事堂まで最短距離で通えるようにするためだという話がある。他にも、目白の田中邸から西山町の田中邸までは角を2回しか曲がらないで行けるというという話もある(実は、これは、事実だった。しかし、田中角栄の実力でそのことを実現させたのかどうかは、もちろん確証はない)。また、新潟県には、至る所に角栄道路、角栄鉄道と呼ばれているものがある。
西日本を旅行していると、しょっちゅう、弘法大師が作った、弘法大師が見つけたという伝説を持つため池、わき水、温泉にぶつかる。田中角栄は、かつて、今太閤と呼ばれていたが、角栄道路、角栄鉄道を見ていると、今弘法と呼んだ方がしっくりくる。それにしても、なぜ、田中角栄は、今弘法と呼びたくなるほどさまざまな角栄伝説があるのだろうか。
たしかに、田中角栄は利益誘導型の政治家のチャンピオンとして、実際に、さまざまな公共工事に介入していたのだろう。また、利益誘導型の政治家としては、このような伝説が流布されるメリットがあったため、積極的にうわさ話をながしていたのかもしれない。しかし、それだけでは角栄伝説のすべてを説明できないようにも思う。
角栄伝説の特徴は、とにかく、伝説を語る人が嬉々としていることだ。なにかうれしそうなのである。利益誘導型の政治家はいくらでもいるけれど、田中角栄ほど人々がうれしそうに語られる人はいない。そして、話を聞かされる側も、なんとなく「あの角栄だったらやりそうな話だ」と思わされるところがあり、また、そう思うとなぜか楽しい気持ちにさせられる。
つれあいは、田中邸の周辺の目白通りに横断歩道がなくて不便だ、田中角栄田中真紀子が、自分の家の近くで自動車の流れが止まらないように横断歩道をつくらせなかったのではないか、という。これも、別段確証がある話ではないけれど、さもありなんと思わなくもない。ここに、ひとつ、小さな角栄伝説ができあがったということなのだろう。そして、この話をわざわざウェブログに書き留めたように、角栄伝説は、誰かに話したくなるような性質がある。
もはや田中角栄の実像には関心はないが、伝説としての田中角栄には興味をそそられている。なぜ、人々は角栄伝説を語りたがるのか、角栄伝説は増殖していくのだろうか。