時間の流れ

あいかわらず「伊沢蘭軒」を読み進めている。
今、私のなかには、三つの時間の流れが並行している感じがする。ひとつは仕事の時間の流れ、もうひとつは私生活の時間のながれ、そして、「伊沢蘭軒」の江戸時代の時間の流れである。
伊沢蘭軒」に引用されている漢文や漢詩はすらすら読むことができず、一文字一文字考えながら読まなければならない、そのゆっくりとした時間の流れが、江戸時代の時間の流れを想像させる。
さて、今日は「伊沢蘭軒」のなかから森鴎外についてのトリビアを書こうと思う。

 わたくしは蔵書の乏しいくせに、図書館には疎遠である。吉永氏の書を得た後、未だ一訪するに及ばない。識る所の書估の云うを聞くに、江戸黄檗禅刹記は所謂珍本だそうである。買い求めることはむずかしそうである。あるいはわたくしも早晩遂に図書館へはしらざることを得ぬかも知れない。(P262)

史伝ものを書くにあたって、手を尽くして資料を探しているように見えるが、なぜ、「図書館には疎遠」なのだろうか。なにか、図書館を嫌う理由があったのだろうか。

森鴎外全集〈7〉伊沢蘭軒 上 (ちくま文庫)

森鴎外全集〈7〉伊沢蘭軒 上 (ちくま文庫)