江戸時代のトリビア続き

あいかわらず「伊沢蘭軒」を読み進めている。縦横に引用されている漢文、漢詩候文にだんだん読みなれてくると、読み進める苦痛がかなり軽減されてくる。引用文ではなく、鴎外自身が考証をめぐらせている部分は、興味深く感じられるようにさえなってきた。
さて今日も、「伊沢蘭軒」で気がついたトリビアを取り上げようと思う。蘭軒の友人である菅茶山が蘭軒に与えた手紙から引用する。

牽牛花大にはやり候よし、近年上方にてもはやり候。……わたくしの家に久しく漳州だねの牽牛花あり。……さて其たね牽牛花はやるにつき段々人にもらはれ、めつたにやりたれば此年は其たねつきたり。はやらぬ時はあり。はやる時はなし。晋師骨相之屯もおもうべし。呵々。(p271)

江戸ではあさがおが大いにはやっているとのことですが、近年、上方でもはやりました。わたしの家には、長く、中国の漳州産のあさがおがありました。その種を惜しむことなく人にあげているうちに、今年、その種は尽きてしまいました。流行らない時にはあさがおの種があり、はやる時にはもうなくなっている。おのれの骨相に表れた運命のつたなさを考えるべきでしょうか。あははは。
江戸時代に園芸が流行したということはよく耳にする。菅茶山の手元には中国産のめずらしい朝顔の種があり、それが珍重されたことがわかる。
最後に「呵々」と書かれているが、これは「呵々大笑」の「呵々」で、大笑いする様を示している。「あははは」と訳したが、「(笑)」と訳するのが最もふさわしいと思う。江戸時代にも、自嘲的な笑いをいれるという用法があったというところが面白い。