歌舞伎とオタクと日本文化

昨日、谷崎潤一郎「蓼食う虫」を読んでいると書いた。それと平行して、図書館で借りてきた「円地文子全集第十五巻」で円地文子の随筆を読んでいる。文庫本の「蓼食う虫」は通勤で、単行本の「円地文子全集」はベッドサイドで読んでいる。
さて、その「円地文子全集」に「歌舞伎のともしび」という随筆の一節を引用したい。

 私は子供の時分から歌舞伎を見て来たが、私が見初めて以来、歌舞伎が今にも消える前の蝋燭のように心細がられなかった時期は殆どなかった。この徳川時代の庶民の間に根を生やした娯楽的な、華美な舞台芸術はその官能美と、義理にも上品とは言えない無知な猥雑さのために、明治以来絶えず西洋文明の強すぎる光線に露骨に照らされて、白痴美だの時代錯誤だのと嘲笑されつづけて来た。
 不思議にそういう歌舞伎滅亡論の影を絶ったのは、日本主義が一敗地にまみれて、アメリカの進駐軍政治が横行した終戦後に於いてであった。歌舞伎ばかりではなく日本舞踊でも茶道でも華道でも伝統的な過去の芸能が、日本を外国人にお眼にかける早わかりな手段として堂々と文化面に浮かび上がって来、日本人自身もそれらの芸能を、外国人の眼に映じる印象を通して、従来とは別の照明で自分の中に受取るように変わった。
 歌舞伎を見る時に感じた私たちの時代のコンプレックスは、今の青年には恐らく理解されないであろう。……(pp.147-148)

現在では、歌舞伎はますます隆盛を極めている。円地文子が書いているように、歌舞伎を見る時にコンプレックスを感じる観客はいないだろう。私自身も、歌舞伎を見ていることを恥じることはない。恥ずかしくなくなったのは、歌舞伎を自分自身のものと考えず、自分の外にある対象物として見るようになった、つまり、外国人の視線で見るようになったからだ。歌舞伎は今も昔も「無知な猥雑さ」がある。昔の歌舞伎の観客は、その「無知な猥雑」な歌舞伎を見ると、自分の中に同じ「無知な猥雑さ」を発見してコンプレックスを感じたのだろう。
しかし、歌舞伎はそうではなくなったけれど、コンプレックスを感じる趣味というものがなくなったわけではない。かつてはオタクは自分の趣味にコンプレックスを感じていた。また、オタク以外の人は、オタクを嘲笑していた。
現在では、オタクは「市民権」を得て、以前のように嘲笑されることがなくなり、オタクの人自身もかつてのようにコンプレックスを感じていないように見える。オタクが「市民権」を得たのは、外国人が日本文化としてオタクを捉えているということが、日本人自身にも広く知られるようになったからではないだろうか。岡田斗司夫が「オタクはすでに死んでいる」と語っているけれど、このような海外での認知を通した市民権の獲得とコンプレックスの消滅がオタクを変質させたということと関係があるのかもしれない。
かつてのオタクは、オタクの対象としていたもののいわば「無知な猥雑さ」を自覚していて、そこにコンプレックスを感じていた。しかし、現在のオタクは、オタクの対象としているものに対して、外国人のような視線で見るようになり、わが事として受け止めることがなくなり、それゆえコンプレックスを感じることがなくなったのではないか。
歌舞伎を深く理解し、真に楽しむことができたのは、歌舞伎をわが事としてコンプレックスを感じていた世代の観客である。現代の観客は、そこまでは深く楽しむことはできない。オタクを深く理解し、真に楽しむことができたのは、オタクをわが事としてコンプレックスを感じていた世代のオタクであったのではないだろうか。円地文子が現在の歌舞伎の観客に理解されないと思うように、昔気質のオタクである岡田斗司夫は、現在のオタクと断絶を感じているのだろう。

蓼喰う虫 (新潮文庫)

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円地文子全集〈第15巻〉 (1978年)

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オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

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