本居宣長の過激な達観

子安宣邦平田篤胤の世界」を読んでいる。
前半は、平田篤胤の世界への導入部として本居宣長がテーマとなっている。
それにしても、本居宣長の思想は徹底している。あまりに徹底しすぎて、身も蓋もないと感じられることもある。
一般的に宗教には、世の中の不条理を説明する原理を含んでいる。なぜ、善人が不幸になり、悪人が幸福になるのか、また、人生の上で最大の不条理である死の意味を説明する。
しかし、本居宣長は、その一切を漢意(からごころ)として否定してしまう。
実際の世界では、人間にとって不条理に思えることが起きている。それら全ては神意に基づくもので、神意は人間には推し量れないものだという。人間の側で、その不条理に見えることに対して理屈をつけて合理化することは漢意にすぎないと批判する。つまり、現実を直視せよ、ということだ。
また、死についても、善人も悪人もただ黄泉の国に行くことで、悲しむより他ないものだという。宗教では、死について安心できるような理屈を付けるけれど、それも漢意だと批判する。
そして、在原業平の次の歌を称揚する。

つひにゆく道とはかねて聞きしかど、きのふけふとは思はざりしを

辞世の歌としてさまざまな理屈をつけた歌を読む人が多いけれど、死に際して偽りのない気持ちはこのようなものだ、それを述べているこの歌は尊いと。
確かに、自分の中を深く掘り下げて、嘘偽りのない気持ちを取り出すと、本居宣長の言うとおりかもしれない。しかし、人間はなかなかそこまでは達観できず、本居宣長が漢意と批判する様々な理屈に頼ろうとしてしまう。
実際、本居宣長の後継者たちも、彼のようには達観できなったようだ。平田篤胤も、死後の世界の探求に向かってしまう。
私自身、本居宣長の所説を読んでいると、その清々しさに共感する部分もある。そこまで達観できればいいなとも思う。しかし、実際には、現実をありのままに受け入れることができず、迷ってばかりいて、何かにすがれれば楽になるかなと思いつつ、しかし、なにかにしっかりとすがることもできずに過ごしている。
でも、本居宣長は、そうやって迷いながら生きていくことが、素直な人間の生き方だと言ってくれているのかもしれない。

平田篤胤の世界

平田篤胤の世界