明治維新と武士のその後

磯田道史「武士の家計簿」を再読した。
この本では、加賀藩の御用算用者、経理を担当する武士である猪山家に残された詳細な家計簿を読み解き、幕末から明治にかけてのある武士の生活状況を復元している。「夜明け前」に続き、幕末、明治維新の時期を普通の人々はどのように生きたのかを知るためのケーススタディである。
筆者の磯田も同じような問題意識を持っていたらしい。あとがきで次のように書いている。

 本書で、私は、ある一つの社会経済体制が大きく崩壊するとき、人々はどのように生きるのか、というボールを過去に投げた。いうまでもなく、バブル崩壊、官僚制の失敗、家計の不安といった「いま」からの投球である。正直なところ、私には、これからこの社会がどのようになっていくのか、不安で不安で仕方がなく、猪山家文書という虫喰いだらけの古紙の山を前にして、「明治の人は、どうしていたのか」と問いかけずにはいられなかったのである。本書を書いた理由は、唯これ一つであった。
(p217)

猪山家が家計簿を作り始めたのは、家財衣服を売り払い借金を整理するという事実上の破産状態になり、支出を厳しく管理する必要が生じたためである。なぜ、このような状況に追い込まれたのか。著者によれば、江戸時代の後期になると、武士としての身分に必要な「身分費用」、すなわち武士の体面を保つための交際や儀礼などにかかる費用が、武士としての「身分収入」を上回ったからだという。明治維新によって武士という身分が剥奪されたが、それに対する抵抗はあまり大きなものではなかった。筆者は、その背景には「身分費用」の重圧があったのではないかと指摘している。おもしろい観点だと思う。
前述のように、猪山家は加賀藩の経理を担当する家柄である。幕末に生まれた猪山成之は、京都へ出兵する加賀藩の軍隊の兵站業務を担当することになった。「夜明け前」でも、大名の行列や軍隊が街道を移動するために、街道筋の庄屋である青山半蔵が人足、牛馬を苦労して集めることがしばしば書かれている。歴史書、歴史小説では、軍隊があたかも将棋の駒のように移動するように書かれていることが多いが、移動のための人足、牛馬、食料などどのように確保したのか疑問に思っていたので、兵站の担当者から見た歴史という観点はなかなか興味深い。
猪山成之の加賀藩での兵站業務の仕事ぶりの評価が高かったらしく、大村益次郎からスカウトされ明治の新政府の軍務官となる。その後、新しく作られた海軍の経理畑を歩むことになる。武士の明治にはいってからの生活は、官吏になれたかなれなかったで大きく運命が分かれたようだ。海軍に出仕できた猪山成之の年収は現在の感覚では3,600万円にもなるが、官員になれず民間の企業に就職した別の元武士の年収は150万円に相当するという。困窮する元武士が多いなか、猪山家は明治に入って江戸時代より生活水準が大幅に向上している。
猪山家とその他の武士の運命を分けたのは、御用算用者としての実務能力の有無だった。猪山家でもそのことはよく理解しており、子弟の教育にはきわめて熱心で、彼らの海軍に就職することになる。
磯田は、あとがきでつぎのようにまとめている。

…大きな社会変動のある時代には、「今いる組織の外に出ても、必要とされる技術や能力をもっているか」が人の死活をわける。かつて家柄を誇った士族たちの多くは、過去をなつかしみ、現状に不平をいい、そして将来を不安がった。彼らに未来はきていない。栄光の加賀藩とともに美しく沈んでいったのである。一方、自分の現状をなげくより、自分の現行をなげき、社会に役立つ技術を身に付けようとした士族には、未来がきた。私は歴史家として、激動を生きたこの家族の物語を書き終え、人にも自分にも、このことだけは確信をもって静かにいえる。まっとうなことをすれば、よいのである……。
(p218)

わが身を振り返り、自分がいま勤めている会社の外に出た時の自分の価値について、疑問に感じることも多い。日常の業務に埋没するだけではなく、普遍的に価値がある技術、能力を身につけることに気をつけなければいけないと今更ながら思い起こされる。
明治維新によって江戸時代の身分、職務とそれに付随した特権を失いながらも、新しい社会への高い理想を持ち奔走し、それが裏切られてしまい結局発狂、悶死してしまう青山半蔵。親戚縁者には没落した元武士が多いなか、江戸時代から身につけてきた御用算用者としての実務能力を生かし明治維新後の政府で職を得て、生活が向上した猪山成之。明治維新という激動の時期を挟み、人の運命はさまざまである。これからも、幕末を生きた人々のことについて読んでいこうと思う。

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)

夜明け前 全4冊 (岩波文庫)

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