「石と笛」を読んで

ハンス・ベンマン「石と笛」を読み終わった。
このところ忙しく、なかなか読書の時間が取れず、少しずつ読んでいたけれど、図書館から返却催促のメールが入り(以前は、電話で督促されていたが、そちらの方が効き目があるのではないかと思う)、週末を利用して最後まで一気に読んだ。
この本は、作者のハンス・ベンマンはメルヘンの作品だと語っているという。中世と思しきファンタジー的な世界のなかで、聞き耳という名の主人公がさまざまな試練を経験するビルドゥングスロマン教養小説である。
主人公の聞き耳は、話の途中で半人半山羊の姿に変えられてしまう。ネット上で知り合った人が、私の山羊庵(yagian)というハンドルネームと「私が山羊になったわけ」(http://goo.gl/yJN5x)という一文を読んで、この「石と笛」がハンドルネームの由来なのか、もし読んだことがことがなければぜひ読むといいと薦めてくれた。
メルヘンやファンタジー小説はあまり読んだことがなかったけれど、この「石と笛」なかなか一筋縄でいかない作品で、そこがよかったと思う。
聞き耳は、さまざまな試練を経る。ファンタジーのロールプレイングゲームだったらその試練を克服するたびに経験値が増えて、より高いステージに移行できる。それが通常のファンタジーやビルドゥングスロマン教養小説の構造である。しかし、「石と笛」は、そのように単純、直線的に主人公が試練を克服し、成長するわけではない。
一見、試練を克服したように見えても、それが原因となって大きな罪悪を引き起こしてしまう。また、魔法の石や笛などを手に入れても、その石や笛の本来あるべき使い方を理解できず、誤った使い方をしてしまう。小説の最後には聞き耳の老年期が描かれるが、決して悟りの境地に至ることはなく、迷ったままである。
そうしたところが、ファンタジー、メルヘンでありながらも、聞き耳の生涯にリアリティを与えており、ファンタジーを読み慣れていない私にとっても素直に読むことができた。
身に染みる表現はこの小説のさまざまな部分に散りばめられているけれど、特に今の私自身に響いた言葉を引用しようと思う。

「…おまえさんはこの谷で、自分が愛されているというけっこうな体験を、たっぷり味わったんじゃないのかね?さもなきゃ、おまえさんは、ここまできただろうか?それだけでも文句なしに、全生涯をかけてもいい希望じゃないか。おまえさんは、あのいうにいわれぬ目をはじめて見たときから、そのことを感じとってしかるべきだったんだ。ところが、おまえさんときたら、うまく立ちまわって自分の得になることをしてやろうと、そんなことばかりにかまけていた。おまえさんの人生なんて、まだごくわずかなものなのに、じつにいろんなものを贈られたじゃないか!それをおまえさんは、いっさいがっさい自分のふところに入れた。それが当然とばかりに。そろそろ贈るほうにまわってみたらどうかね、そうすりゃ、自分にはまだ希望がいっぱいあるってことに気がつくさ。あの若者に笛を教えることで、おまえさんはその一歩を踏みだした、わたしはそう思ったよ、やっとおまえさんも、ものの道理がわかってきたなと。ところが、おまえさんみたいな連中は、ずっと前から目の前にあるものをみせてやるにも、それを鼻さきにつくつけなきゃならんのだからな
(p83 第三部下)

最近、自分の人生を振り返り、折り返し点に差し掛かっているという意識が強くする。これまでは、いろいろなものを贈られて、それを自分のものとして、自分の得になるように立ちまわってきた。これからは「贈るほうにまわってみたらどうかね」という言葉は強く響いてきた。

石と笛〈1〉

石と笛〈1〉

石と笛〈2〉

石と笛〈2〉

石と笛〈3 上〉

石と笛〈3 上〉

石と笛〈3 下〉

石と笛〈3 下〉