ビートルズ、荒井注、レヴィ=ストロース

最近、稲本(id:yinamoto)のウェブログをネタにすることが多いが、申し訳ないけれど今日も使わせてもらおうと思う。
以前の記事にも書いた(id:yagian: 20110520)にも書いたけれど、稲本は、人間関係をビートルズの四人に関係になぞらえることがある。例えば、落語四天王の四人の関係は、志ん朝がポール、談志がジョン、円楽がジョージ、円鏡がリンゴだという。(id:yinamoto:20110211)。これはなかなか言いえて妙だと思う。また、ピンク・フロイドのメンバーを、デイヴィット・ギルモアをポール、ロジャー・ウォーターズをジョン、リック・ライトをジョージ、ニック・メイソンをリンゴになぞらえている(id:yinamoto:20101217)。私はピンク・フロイドのことはよく知らないので、これがどれだけ的を射ているのかよくわからない。私も彼のまねをして、YMOでは細野さんがポールで、坂本教授がジョン、高橋幸宏がジョージとリンゴを合わせた存在と書いた。当たっていると思われるだろうか。
やや話が変わるけれど、心理学者のなかに血液型性格占いを批判している人がいる。根拠はまったくないし、差別につながるので有害だというのである。私自身、その主張にはまったく同感なのだけれども、なぜ根拠がない血液型性格占いが広く受け入れられるのか、その理由に迫る議論がないところがものたりないと思っている。
文化人類学では、特定のグループに対して動物、植物、その他の自然物をあてはめる「トーテミズム」と呼ばれる現象があることが知られている。ある氏族がタカの氏族と呼ばれ、ある氏族がカミナリの氏族と呼ばれる、といった現象である。しばしば、トーテミズムは起源を説明する神話、つまり、タカの氏族の開祖はタカだったというような、を持っている。しかし、そのような神話が必ずあるとは限らない。また、その氏族がほんとうにタカの子孫だと信じられているとは限らない。
レヴィ=ストロースは、「野生の思考」の中で、未開の社会では(そして、実は近代社会においても)、白紙から体系を作り上げるロジカル・シンキングのような思考ではなく、身近にあるありあわせの材料を用いて思考が行われている(彼はこのような思考を「ブリコラージュ(器用仕事)」と呼んでいる)と指摘している。「ブリコラージュ」においては、人間のグループ分けするときに、現代のコンサルタントがロジック・ツリーを作るように白紙からの体系化をするのではなくて、身近に存在する自然界の動物種、植物種、その他自然物の種の分類体系(つまり、彼らの手に入れることができるありあわせの材料)を利用し、それを人間のグループの分類に当てはめる。それがトーテミズムの意味だという。だから、タカの氏族は、たまたまタカが当てはめられたというだけであって、その氏族とタカには必然的な関係はないということになる。
その意味では、血液型性格占いは現代版のトーテミズムではないかと妄想している。人間の性格のタイプをあるグループに分類したいという欲求があり、その素材として本来は性格にはなんら関係のない血液型という属性をブリコラージュ的に当てはめたのではないだろうか。これは単なる思い付きだけれども、血液型性格占いに対して、心理学的なアプローチでその非科学性を暴くだけではなく、社会学的なアプローチの考察も読んでみたい。また、今日の記事のテーマ、ビートルズ式人間関係分類法も「ブリコラージュ」の一種かもしれない。
それはさておき、今日の本題に戻るけれど、これまでは、他人のことをビートルズの人間関係に当てはめてきたけれど、自分自身をこの枠組みに当てはめると誰になるのだろうかと考えてみた。おそらく、自分はポールだとか、ジョンだとか言える人はなかなかいないだろうけれど(自分を天才だということは難しいから)、私も選ぶとすればジョージかリンゴということになる。リンゴのように愛嬌がたっぷりでおしゃれというタイプではないから、ポールとジョンの横で淡々と努力をし続けたジョージということにしてもらえればうれしいかなと思う。ビートルズのなかではポールが好きだけど、身近な存在として共感できるのはジョージだし(勝手に「身近」とか言っているけども、実際にはとっても偉い人なのかも知れない)。
それじゃあ、落語四天王に例えると円楽っていうことになるが、うーん、それはちょっと辛いなぁ。ジョージだったら納得できるんだけど(円楽さんにはさらに申し訳ないけれど)。
以前、このウェブログ谷啓にあこがれると書いたら、稲本が、いや犬塚弘だろうというコメントをつけたことがあった(id:yagian:20060520:1148105421)。たしかに、谷啓ほどの才能も愛嬌もないし、自分でも犬塚弘かなと納得してしまう。クレイジーキャッツハナ肇植木等がツートップだけれども、ハナ肇のリーダーとしての地位が明確だという意味では、ポールとジョンのような対等な関係とは違う。また、ツートップの隣にいる谷啓は、天才肌という意味ではジョージというよりはむしろポール的で、ビートルズとは関係が違っている。
それではストーンズでは誰だろうか。ツートップのミックとキースは恐れ多いから、チャーリー・ワッツといいたいところだけれども、そんなにダンディじゃないだろうとつっこまれそうである。ロン・ウッドでがまんしておこうか(いや、ロン・ウッドも十分かっこいいですが)。
ミックとキースの関係は、ポールとジョン、ハナと植木屋との関係とも違っている。清志郎とチャボの関係は彼らに近いのだろうけれど、それぞれの役割分担がはっきりしていて、お互いの領分を侵犯しないという印象がある。その意味で、対等なライバルだったポールとジョン、植木屋が売れたことに対して自分がリーダーなのにと思って嫉妬しているハナという関係とは違っている。ストーンズが長続きしている理由はそこらへんにあるような気もする(もっとも、RCは解散しちゃったわけですが)。
それじゃあ、ドリフターズだと誰になるのだろうか。少なくとも、ツートップの加藤茶志村けんではないだろう。かといって、いかりや長介のようなプロデューサー気質もない。高木ブー的な印象はないように思う(思いたい)から、消去法でいうと仲本工事荒井注ということになる。円楽という役回りもちょっとつらかったけれど、仲本工事荒井注のどちらかというのも究極の選択である(なんだばかやろう)。
ドリフターズの特徴は、いかりや長介のような、一歩引いたプロデューサー的な役割のメンバーがいることだと思う。ハナ肇はリーダーでありながらも、プレイヤーとして前に出たがっていた。一方、いかりや長介加藤茶志村けんを売り出すことを計算している印象がある。グレージーキャッツでいえば、青島幸男的な存在かもしれない(青島幸男クレージーキャッツのメンバーにはならなかったけれど、前に出たがっていたわけですが)。
何かの人間関係のなかに自分を位置づけるという意味では、「ピーナッツ」のライナスがいちばんしっくりくる。「ピーナッツ」はなかなか複雑な人間関係を描いているから、誰が自分にいちばん近いと思っているか聞いてみるのも面白いかもしれない。
こんな感じで、人間のタイプを分類する枠組み間の変換関係を考えるのって、構造主義っぽい気がする、と言ったら言い過ぎかしらん。なんだばかやろう、じゃなくて、レヴィ・ストロース先生すいません。

野生の思考

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