モバイル・デバイスとプライベートとパブリック

MacThinkPad」(id:yagian:20110717:1310855282)のなかで、会社のPCをデスクトップからノートに代えて、持ち歩きができるようになったら、家で仕事をするようになってしまったという話を書いた。
うつ病になる以前、いちばん仕事をしていた時期は、デスクトップとノートの二台持ちで、もちろん家でも仕事をしていた。出張の前日会社で徹夜仕事をして、そのまま羽田空港に行ってラウンジでシャワーを浴びた後、そこでノートPCで仕事をして、飛行機が離陸して水平飛行になったらやっぱりノートPCを広げ、アポイントメントまで空いた時間に喫茶店に入り、またそこでノートPCを広げて、というようなことをしていた(自分で書いていて、倒れて当然のような気がしてきた)。
うつ病になって以来、基本的に内勤になったのだが、仕事の量も責任も制限され、また、自分でも制限をして、仕事は会社だけですることにして、家には持ち帰らないようにしていた。その意味もあって、会社のPCはあえてデスクトップにしていたし、出張をすることはほとんどなかったから特に問題はなかった。
たまに調子が悪くて会社を休むことがあったけれど、どうしても仕事をしなければならない日は、なんとか会社に行くだけは行っていたし、休む日は休んでもなんとか乗り切れる日で、会社に電話をかけて上司と相談すればなんとかなっていた。
以前よりは減ったけれど、最近もたまに休む日がある。このところは、仕事量も増えたけれど、なにより、責任が増してきて、私が判断を下さないと仕事全体が滞るようケースが多くなってきた。自分一人が進めている作業が中心であれば、休んでも別の日に取り返して最終的に納期に間に合わせるように帳尻を合わせればいいけれど、人に作業を依頼していたり、進捗を管理したりしていると、そうは言ってられなくなる。
そこで、新しいPCに代えるときに、ノートにして、家で会社のメールやイントラネット、ファイルサーバーにアクセスできるような環境を作った。
毎日家にPCを持ち帰っている訳ではないけれど、週末や社外で打合せがあった後直帰するとき、あと、調子がすぐれず翌日休む予感がする時などは持ち帰るようにしている(幸いなことに、ノートPCに代えてからは、休んでいないけれど)。
昨日は社外で打合せがあって直帰するパターンだった。議事メモはなるべく記憶が新鮮なうちに作っておこうと思い、帰宅後すぐに議事メモをつくることにする。しかし、まずは、午後の間に溜まったメールが気になってメーラーを開くと、いろいろ細々と対応すべき仕事が発生していて、その処理をすることになる。それが終わって、議事メモを作って関係者に発信するまで、けっこうな時間働いてしまった。
この週末は、主にPMPの試験準備の勉強をしていたけれど、本業の方もビハインド気味だったから、仕事が可能な環境にあると、ついつい仕事をしてしまう。
これまでは、平日に仕事が終わらなかったときは、休日出勤をして仕事をし、家では仕事をしないようなけじめをつけていた。しかし、家で仕事ができる環境があると、ちょっと仕事をし、テレビを見て、PMPの勉強をし、また仕事をして、とけじめがつかないことになってしまう。
大きく言えば、ノートPCというモバイルデバイスによってプライベートとパブリックの区分があいまいになったということだと思う。
私自身の仕事のことを振り返ると、携帯電話と社外でもアクセス可能なノートPCの普及が、プライベートとパブリックの境界の敷居を下げたように思う。以前であれば、文字通り行方不明になることもできた。休んでいる人の自宅に電話をかけたり、ファックスでやり取りすることは可能だったけれど、よほどのことがなければしなかったし、その人が外出していれば連絡をつけることは不可能である。
私の会社では、内線に使っている電話がそのまま社外では携帯電話になるようになっている。さすがに、顧客にはその内線番号をそのまま教えることはしていないが(ワーカホリックな社員は教えている人もいるようだけれども)、緊急の連絡が入れば携帯電話やメールでいつでも捕まえることができるようになった。理由がよくわからないけれど、固定電話に電話することに比べると携帯電話に電話をかけるのは敷居が低いような気がするし、携帯にメールをいれるのはほとんど抵抗感がない。
また、ノートPCが普及して、連絡がとれるだけではなく、社外でも会社と同じような環境で仕事ができるようになった。データ、文書類はファイルサーバーに保存してあるから、必要なデータは見ることができるから、PCの画面の大きさの差と通信速度がやや劣ることを別とすれば、十分仕事ができる。最近、会社も在宅勤務の要件を緩和したので、サービス残業としての在宅の仕事ではなく、正式に自宅で仕事をすることもできるようになった。
私の会社では、スマートフォンは情報セキュリティの管理が十分にできないという理由で、会社のネットワークにアクセスできないから、それで仕事をするということはない。しかし、以前、Salesforce.com(企業向けクラウドサービスの大手企業)の人のプレゼンを聴いたとき、社員にBlackberryが配布され、メールの送受信とSalesforceのサイトへのアクセスをしており、どこにいても仕事が追っかけてくるという話をしていた。将来的には、私の会社もクラウドサービスへの移行が進めば、わざわざノートPCを広げずにスマートフォンで隙間時間にちょこちょこと仕事をすることになるのだろうと思う。
仕事のあり様の歴史を振り返って考えて見れば、近代以前は生活と仕事の間には明確な境目がなく、世帯が生活の単位でもあり、仕事の単位でもあって、渾然一体としていたのだと思う。また、個人、世帯、コミュニティの境界も曖昧で、プライベートとパブリックの間も判然としていなかったのだろうと思う。
近代に入って、企業組織に雇用されて働く人が増えると、生活と仕事が分離されるようになってくる。もちろん、生活と仕事が渾然一体としている人、世帯もあるけれども、一定の場所、時間で仕事をし、それ以外の時間がプライベートの生活の時間という人が増える。
現代は、そのパブリックとプライベートの境界が、モバイル・デバイスによって崩れてきているのだと思う。近代の企業組織では、一定の場所、時間に人を集めることによってコミュニケーションを効率化することによって業務を行ってきたけれど、物理的に集まらなくてもコミュニケーションが成立するようになれば、その仕組は解体することになる(もちろん、物理的に集合しなければうまく仕事ができないというものも残り続けるはずだが)。
ステレオタイプ的に言えば、近代西洋では、パブリックとプライベートの境界が重要視されており、一方、日本の「会社」はパブリックとプライベートが渾然一体となった一種のコミュニティを形成していたと指摘されることがある。このことの可否はよくわなからないけれど、パブリックとプライベートの境界が成立したということが近代の特徴の一つであることは間違いない。
現代、モバイルデバイスによって、パブリックの領域にある仕事とプライベートの領域にある家庭生活が相互に混ざり合うようになり、また、インターネットの空間というそもそもパブリックともプライベートとも区分しがたい世界が広がるようになってきた。
西洋においてパブリックとプライベートの境界が重視されているとするならば、モバイル・デバイスによるその境界の破壊という現象がどのように捕らえられているのか、肯定的に受け止められているのか、否定的に受け止められているのか知りたいと思う。
また、日本においては、「会社」というコミュニティが崩壊して、パブリックとしての企業とプライベートとしての生活が分離するという動きと並行して、このような動向が進んでいるように思う。
会社の後、毎日同僚と飲み歩くことはしていないけれど、一方で、勤務時間中にTwitterFacebookは覗いている(その分、最近は家で「サービス残業」をして埋め合わせているけれど)。これも、パブリックな会社へのプライベートの侵入の形態の一つである。昨日、仕事に関係した相談をTwitter仲間にメールを送ったけれど、これは、パブリックなのかプライベートなのか、もはやよくわからない。
この現象について、自分でもよくまとめられないけれど、インターネットとモバイル・デバイスが社会に与える大きな影響の一つだと思う。