「余は余一人で行く所まで行って、行き尽いた所で斃れるのである。」
最近、時事的な文章ばかりを書いていて、いささか食傷してしまった。
世間離れをしたくなり「漱石書簡集」を読み返してみた。
心を打たれたところはいろいろあるのだが、今日は、狩野亨吉宛の手紙の一節を紹介したい。
その当時、新設だった京都帝国大学文科大学の学長(今で言えば、文学部学部長にあたるような役職)になった狩野が夏目漱石を英文科の教授へ招聘したことに対する返事である。
…僕も京都に行きたい。行きたいがこれは大学の先生になって行きたいのではない。遊びに行きたいのである。自分の立脚地からいうと感じのいい愉快の多い所へ行くよりも感じのわるい、愉快の少ない所におってあくまで喧嘩をしてみたい。これは決してやせ我慢じゃない。それでなくては生甲斐のないような心持ちがする。何のために世の中に生まれているかわからない気がする。僕は世の中を一台修羅場と心得ている。そうしてその内に立って花々しく打死をするか敵を降参させるかどっちにかして見たいと思っている。敵というのは僕の主義、僕の主張、僕の趣味から見て世のためにならんものをいうのである。世の中は僕一人の手でどうもなりようはない。ないからして僕は打死をする覚悟である。打死をしても自分が天分を尽くして死んだという慰藉があればそれで結構である。…
明治39年(1906年)10月23日 狩野亨吉宛
…十余年前の余であるならばとくに田舎に行っている。文章を作って評判がよくなろうが、授業の成績があがろうが、大学の学生がほめようが―凡ての事に頓着なく田舎へ行ったろう。京都で呼べば取るものも取り合えず飛んで行ったろう。君がいればなお恋しく思って飛んで行ったろう。―しかし今の僕は松山へ行った時の僕ではない。僕は洋行から帰る時船中で一人心に誓った。どんな事があろうとも十年前の事実は繰り返すまい。今までは己れの如何に偉大なるかを試す機会がなかった。己れを信頼した事が一度もなかった。朋友の同情とか目上の御情とか、近所近辺の好意とかを頼りにして生活しようとのみ生活していた。これからはそんなものは決してあてにしない。妻子や、親族すらもあてにしない。余は余一人で行く所まで行って、行き尽いた所で斃れるのである。…
明治39年(1906年)10月23日 狩野亨吉宛
漱石は帝国大学を卒業したあと高等師範学校の英語教師となるが、松山中学に転職する。松山中学での職は、明らかに帝国大学卒業生にはふさわしくなかった。なにかの原因で精神的に追い詰められており、友人に紹介され職を得た松山へなかば逃げたということのようだ。しかし、松山の地の居心地はよくなかった(その経験は「坊っちゃん」に反映されている)ため、熊本の第五高等学校に転職する。熊本の環境はそれなりに気に入っていたようだ。その後、英国に留学する。
漱石と帝国大学での同級生で親友だった正岡子規は、ありあまる才能を持ちながらもそれを活かすことを考えずに、松山と熊本に逃げていた漱石にあきたらない思いを抱き続けていた。子規自身は大きな仕事をしようと思っていたけれど、結核が足枷になってしまう。健康を害したなか、できうるかぎりのことをするけれど、自分の死期が近いことを悟っている。
結局、子規は次の手紙を漱石に送ったのを最後にして死んでしまう。
僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ、…僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー。ソレガ病人二ナッテシマッタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヨウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ。モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内二今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)。
…
僕ハトテモ君二再会スルコトハ出来ヌト思ウ。…
書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ。
…
明治34年(1901年)11月6日 夏目漱石宛
漱石は、Londonで精神を病んでいた。しかし、子規からの「僕はもうだめになってしまった」の手紙の返事を書けなかったことを非常に悔やんでいた。そして、自分の制約のなかでやれることをやりつくした子規を見て、漱石も「一人で行く所まで行って、行き尽いた所で斃れる」ことを「洋行から帰る時船中で一人心に誓った」のだろう。
子規は日本の近代文学にきわめて大きな影響を与えているけれど、ほんとうは歴史に残るような小説を書きたいと考えていた。しかし、それは実現しなかった。
漱石はロンドンから帰国して東大帝国大学文科大学講師になる。そして、「吾輩は猫である」を書いて小説家としての地位を得て、その後、大学を辞めて専業小説家として朝日新聞に就職する。漱石が小説を書いたのは最晩年の10年少々の期間である。しかし、その間に日本近代文学を代表する小説を書き、結果的に子規の意志を継ぐことになる。
私がすべき「一人で行く所まで行って、行き尽いた所で斃れる」ことについて思いを馳せている。
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