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気持ちいい音

この10月から自分の直属の上司が異動になり、その代わりに私がそのポジションにつくことになった。一昨日の夜、そのかつての上司と飲みに行って、いろいろと「大人の話」をした。
といってもふたりきりでずっと「大人の話」だけをするのは辛いので、話はいろいろと脱線してく。そのかつての上司は、若い頃バンドをやっていて、ロック、特に、ハードロック、プログレが好きだという。けれど、最近のロックはほとんど聴いていないと言っていたので、自分が買った最近のロックのCDを無理やり押し付けてきた。といっても、私も最近の音楽を聴き込んでいる訳ではないので、ほんとうにメジャーどころだけだけれども。
最近のロックは、ヒップホップの影響を受けているバンドが多い、という話の流れで、ロック以外にソウルやファンク系の音楽を聴くことがないかと聞いたら、あまり聞かないという。例えば、ブルースみたいに定型化されてパターンが決まった音楽は飽きてしまうことが多くて、プログレのような複雑な曲の方が好きだという。
その話を聞きながら、稲本のウェブログの記事「抽象と具体」(id:yinamoto:20111003)を思い出していた。

西洋画では、19世紀後半の印象派あたりから抽象表現が準備されて、20世紀に入ってから、「実は絵というのは色と形と素材感の抽象的な組み合わせなのだ」ということが意識されるようになった。

同時並行の流れとして、近代西洋の音楽では、無調音楽というものが登場したのだと思う。音楽はある決められた調性や限られた和音に支配されていたけれど、調性や和音のルールを無視すれば「音楽は音(高さ、音色、大きさ)を時間軸にそって自由に組み合わせてよい」ということが意識された、ということだと思う(勝手に思っているだけで確証はないけれど)。
その意味で、元上司が退屈してしまうというブルースは、コードとその展開が厳密に決まっているという意味で、近代西洋の音楽の流れから正反対なものなのかもしれない。
絵画や音楽の世界で、ルールを解体して基本的な素材まで立ち返るようになった背景に、「芸術は作家がオリジナルな新しい作品を創造するもの」という考え方があったのだと思う。オリジナルな作品を作るためには、ルールを解体して自由に作品を作るということが追求されたのだろう。
しかし、そもそも調性や決められた和音というものはなぜあるのだろうか。これはほんとうに憶測だけれども、気持ちいい音を追求していた結果、この調性、この和音が気持ちいいということがわかり、それが定着した。また、ある調性、ある和音の音を聴き慣れると、ますますその音が気持ちよく感じるようになり、そうしてあるコミュニティのなかで調性や和音のルールが作られたのではないだろうか。
そう考えれば「抽象絵画」や「無調音楽」が「難しい」ということは容易に理解できる。ルールを解体してみせたこと、絵画や音楽の枠を大きく広げたことという意味では近代芸術の存在意義は大きいけれど、「気持ちよさ」から離れたものになってしまった。
で、話はぐるっと戻ってくるのだけれども、複雑な構成を持ったプログレを聴くと、ルールを壊して自由に「作家」としての自分が何かを表現しようとする、気持ちがあるように思える。

一方、プログレと同様に新しい音楽を追求していたけれど、James Brownにはあまり近代的な「作家性」を感じない。音楽を解体して自由な表現をしよう、というのではなく、気持ちい音を求めていたら結果としてこの音楽にたどり着いてしまったというような印象がある。

もちろん、プログレの音だって気持ちいいし、James Brownだって近代的自我や公民権運動を背景とした「表現」の要素はあるので、話を単純化しているのだけれども。
追記
ある意味、音楽のルールを解体した極限にあるアンビエントは、逆に作家性というものが失われてしまうような気がしている。どういう理屈になるのかわからないけれど。制約・様式・伝承と創造性・作家性・オリジナリティの関係ってなかなか難しい。