ヒップホップを楽しむことはできるのか

大和田俊之、長谷川町蔵「文化系のためのヒップホップ入門」を読んだ。
そもそも、ヒップホップに入門しようと思って本を読んでいる時点でダメダメなんだけど…
この本は、アメリカ文学者の大和田俊之とヒップホップライターの長谷川町蔵の対談形式で進んでいく。最初に、大和田俊之がヒップホップとの出会いについて語っているけれど、これには共感できた。彼は私の三歳年下だけれども、同世代の人は共感するところが多いのではないだろうか。

大和田 …まず、自分の話からはじめると、ボクはブルースとかジャズとかR&Bとか、いわゆる黒人音楽に若いころからそれなりに時間とお金をかけてきたんです。にもかかわらず、ヒップホップの壁が超えられなかった。もう悲しいほど乗り遅れてしまったんですよ。
長谷川 ヒップホップの壁?
大和田 とにかくヒップホップの聴き方がわからなかった。僕は70年生まれなんですが、普通の洋楽ファンは子供のころにビルボードのトップ40を眺めつつ、ランDMCやMCハマーが出てきて何か新しいジャンルが現れていることに気づいた世代です。…ヒップホップに行くべきだと直感的に確信して、何度か試したんですよ。…そしたらギャングスタ・ラップが出てきたんです(笑)。ごめんなさい、もうぜんぜんわかりません!白旗。ドクター・ドレーの『The Chronic』(1992)なんてPファンクをあからさまに使っているし大好きなのに、うーん、これなら僕はおとなしくPファンクのアルバムを聴いてます、という感じでした。

こういう気持ちはよくわかる。小林克也のベスト・ヒットUSAを見て、ビルボードのトップ40を追いかけてコンテンポラリーな洋楽(というかアメリカのポップミュージック)を同時代的に追いかけていた頃のいちばん終わりごろにグランジとヒップ・ホップがでてきて、グランジはなんとなく理解できたけれど、ヒップホップは「聴き方がわからなかった」。そのうち、コンテンポラリーな音楽を追いかけることから引退してしまって、70年代のロック、ファンク、ソウルばかりを聴くようになり、ヒップホップとは縁のないまま過ごしてしまった。現代のポップ・ミュージックは多かれ少なかれヒップホップの影響下にあるから、ヒップホップが聴けないということは、コンテンポラリーなポップミュージックが聴けないということとほぼ同じ意味になってしまう。
実はおいしい音楽の世界が広がっているのかも、と思いながら、どうにも手が出せなくて残念だった。最近、また、ヒップホップに再挑戦しようと、Grandmaster Flashからギャングスタ・ラップを経由してKanye Westまで聴いてみた。その上で、この本の長谷川さんの解説を読んで、ずいぶん腑に落ちた。

長谷川 …ヒップホップをロックと同じように音楽だと思うから面白さがわからないのであって、「ヒップホップは音楽ではない」、そう考えれば、逆にヒップホップの面白さが見えてくるんです。…ずばり、一定のルールのもとで参加者たちが優劣を競い合うゲームであり、コンペティションです。その違いは第一線から退いたアーティストの扱われ方の違いに表れています。ロックだとファンが徐々に減っていくけど、ヒップホップはファンがクモの子を散らすようにいなくなっちゃう。それは「こいつはもうゲームに勝てなくなった」と見限られたってことなんですよ。

ヒップホップの世界は僕らとは著作権の考え方が違っていて、世に出てみんなに愛されたらそれはコミュニティの財産。だから、みんなに喜んでもらうために共有財産をストレートに使うという発想がでてくる。ドレーっていわゆるミュージシャン・エゴが欠落しているんですよ。サウンドのクオリティの追求に関しては完全にパラノイアなんですけど、それはあくまで、コミュニティの日常を彩るツールとしての機能を上げんがためなんですよ。でも、もしかするとドレーだけじゃなくて、ヒップホップ自体が自己表現するための音楽ではなかったんじゃないかって思い始めたら、オセロの意志がバーっと白から黒にひっくり変えるようにヒップホップの聴き方が変わってしまったんです。

ヒップホップは、シーンを天才が牽引するというよりは、みんながトップを争ってボトムからあがっていく感じなんですよ。才人の成果はシーンに還元されて共有財産になっていく。トップランナーがコケても、成果はボトムに還元されているから、シーンのレベルは常に上がり続けるんです。ヒップホップってロック・ファンからすると、同じことばかりやっていると思われがちじゃないですか。
大和田 ええ、聞き始めたころは楽曲ごとの個体識別ができませんでした。
長谷川 でもシーン全体で俯瞰してみると恐ろしい速度で発展していますよ。ロックのほうが変わっていない。

ヒップホップを楽しむためには、シーンに参加していることがポイントだということがわかってきた。このあとで、ヒップホップのシーンを少年ジャンプにたとえている部分がある。私は、マンガも、もう、現役でシーンに参加せず(つまり、週刊誌は読んでいない)、気になるマンガのコミックスを買って読んでいる状態である。だから、「ワンピース」を読もうかなと思っても、60巻を超えるコミックスを眺めるだけでもう萎えてしまう。ロックはポップミュージックだから基本的にはその場で消費される音楽ではあるけれど、それでも消費されつくせない作品性を目指して作られている楽曲もあるし、私も70年代のそうした音楽を楽しんでいる。楽しみ方は「名作のマンガ」をコミックスで楽しむのと同じである。一方、ヒップホップは「歴史」がない。現役でシーンに参加している人に向けられて発信されているゲームであり、それは、毎週ジャンプでワンピースを読むような体験なのだと思う。ヒップホップの歴史を追いかけてGrandmaster Flashから聴きはじめるのは、ワンピースを一巻から読み始めるようなものなのだと思う。
そう思って自分が英語のウェブログで日本のマンガを紹介した記事(萩尾望都大友克洋松本大洋)を読み返すと、取り上げた作品の古さもともかく、作家主義、作品主義がいかにも年寄りじみているなと思う。しかし、引退した私には、現在進行しているマンガのシーンについては書きようがない。

さて、ヒップホップの「代表曲」をひと通り聴き、また、ヒップホップの構造もなんとなく理解した。そして、現在進行しているシーンに参加しなければ本格的には楽しめそうにないということも分かった。さて、そのシーンに参加するか。
もう、自分の時間を考えると、10代のようにヒップホップに参加するのは難しいと思う。同じように、ジャンプを読んでワンピースを追いかけるのも難しい。若かった頃は、自分の目の前で展開されているシーンのおもしろさ以外には目に入ってこなかったけれど、今は、自分なりにおもしろいと思うことが多すぎて、手が回らない。
「入門」を読んだ結果、逆に、そろそろヒップホップは切り上げるか、という気分になってしまった。

文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)

文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)

Chronic

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