読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

反グローバリズムってなんだろう

誰が言っていたのかわすれてしまったけれど、なにかよくわからないことを理解するためには本を書いてみるのがいい、という意味のことを読んだことがある。その人と比較するのはおこがましいけれど、なにかよくわからないことがあったとき、とりあえずウェブログに書いて言語化することで考えを整理することはよくある。
今日のテーマは反グローバリズムである。"Occupy Wall Street"のニュースを見ながら、つれあいに「反グローバリズムって何?」と聞かれて、うまく答えられなかった。考えを整理しながらなので、結論がどこに着地するのかよくわからないけれど、とりあえず書き進めてみようと思う。
現象としてのグローバリゼーション、つまり、世界でのヒト、モノ、カネ、情報の交流が量的にも質的にも拡大すること、ということについては理解できる。しかし、それに対して、グローバリズム反グローバリズムというイズム(=主義)という接尾辞がついたことばの意味がいまひとつよくわからない。
グローバリゼーションという現象自体は、とくに今に始まったことではない。岡田英弘「世界史の誕生」では、世界の歴史を一体的に捉えるという意味での「世界史」は、モンゴル帝国によってアジアとヨーロッパが本格的に結びついた十三世紀に起点を置いている。もちろん、これ以前にもさまざまな交易、文化的な影響は地域を超えてあったが、グローバリゼーションは十三世紀に本格的に始まったといってもよいかと思う。さらに、大航海時代南北アメリカ大陸、オーストラリア大陸もグローバリゼーションに組み込まれ、現代の「世界(=グローブ)」の骨格ができあがったと思う。
グローバリゼーションが世界各地域への社会、文化、歴史、経済に深い影響を与えたのは現代に至ってからという訳ではない。日本の歴史を考えてみても、戦国時代の集結、日本の再統一は、まさにポルトガルの来航を抜きにしては考えられないという意味で、グローバリゼーションの所産である。もちろん、江戸時代の後期から現代までの歴史は、日本がいかにグローバリゼーションに対応するのか、ということが歴史の基本的な方向を決めている。
岩井克人は「ベニスの商人の資本論」で、次のように指摘している。

 ふたつの異なった価値体系の狭間―それが、そのような場所、いや非場所である。すなわち、おたがいに異なった二つの価値体系の間を媒介して、一方で相対的に安いものを買い、他方で相対的に高いものを売る―それが、等価交換のもので利潤を生み出す唯一の方法である。利潤とは、価値体系と価値体系とのあいだになる差異から生み出される。利潤とは、すなわち、差異から生まれる。
 たとえば、遠隔地交易に代表される「ノアの洪水以前から」の商業資本主義とは、地域的に離れたふたつの共同体のあいだの価値体系の差異を媒介して利潤を生み出す方法であり、いわゆる産業革命以降に確立した産業資本主義とは、生産手段を独占している資本家が、労働力の価値と労働の生産物の価値とのあいだの差異を媒介して利潤を生み出す経済機構であり、いわゆるポスト産業資本主義的な形態の資本主義においては、新技術や新製品のたえざる開発によって未来の価格体系を先取りすることのできた革新的企業が、それを現在の市場で成立している価格体系との差異を媒介として利潤を生み出し続けている。実際、貨幣の無限の自己増殖をその目的とし、利潤の獲得をその動機としている資本主義にとって、差異さえあれば、それはどのような差異であっても構わない。
(p58-59)

ここではポスト産業資本主義を技術開発による未来の価格体系の先取りと指摘しているが、いわゆる金融工学は未来の価格体系をより正確に予測することで先取りをして利潤を得ているということになるだろう。
岩井克人が述べているように「利潤の獲得をその動機としている資本主義にとって、差異さえあれば、それはどのような差異であっても構わない」ため、あらゆる領域に差異を求めている。地理的に遠隔であることによる差異を利用しようとすることがグローバリゼーションの本質である。
現在でも「ノアの洪水以前から」の商業資本主義的な手法も残されているし、また、世界の地域間の賃金の差異を利用して「労働力の価値と労働の生産物の価値とのあいだの差異」による搾取をする産業資本主義的な手法も残されているし、また、政府の介入などによって不合理な価格体系(例えば、為替レート)が存在する場合にはそれをヘッジファンドが利用して利潤を得る。
しかし、このような差異を利用した利潤の獲得は、社会全体の観点からは悪いことではない。人より先駆けて差異を発見、創出、利用することで利潤を得ることができる。しかし、利潤を得るプロセスで差異が消滅し、価格体系の合理化が進む。例えば、冒険的な商人が遠隔地交易で貴重な香辛料を輸入することで莫大な利潤を得たとする。その話を聞きつけて、他の商人が交易に参加して、香辛料の輸入量が拡大し、希少性が失われ、価格が低下する。つまり、利潤を追求することで遠隔地との価格体系の差異が縮小し、最終的には同じなる。
これはどういうことを意味しているのだろうか。輸入元の国の消費者にとって、それまでは非常に高価だった香辛料の価格が安くなるという意味で、利益を得る。輸出先の遠隔地の生産者にとっては、より高価に、より多くの需要を獲得できることで、やはり利益を得る。もちろん、輸入元の国でその香辛料を生産していた生産者、最初に販路を開拓した冒険的な商人は価格体系の差異が消滅することで不利益を被るが、社会全体から見れば小さいことは明らかである。また、先行的に輸入をした冒険的な商人が得た利潤は、その差異を発見、利用したことに対する報酬と考えれば、正当化しうると思う(マルクスはそれを搾取と呼び、プロレタリアートがその利潤を自らのものにする正当な権利があると考えたわけだが)。
現在でも、遠隔地交易による利潤、産業資本主義による利潤、ポスト産業資本主義による利潤のそれぞれが存在している。しかし、その重点は移行している。おそらく、差異をもたらすものは、ある種の制約条件であり、利潤を追求することによってその制約条件が失われていくからだと思う。
遠隔地交易による利潤が基づく差異は、交通通信手段の制約による輸送の困難さ、情報格差である。しかし、遠隔地交易が利潤を得ることがわかれば、交通通信手段への投資、技術革新が進み、その差異は小さくなり、同時に、利潤も小さくなる。
途上国は資本が人口に比較して相対的に不足しているから先進国と比較して相対的に労賃が安く、その差を利用して利潤を得ることができる。しかし、労賃が安い国には海外からの投資が集まり、次第に労賃が上昇する。その結果、労賃の差によって利潤を得ることが難しくなり、資金はより労賃が安い途上国へ移動する。そのプロセスで、途上国の生活水準は向上する。
日本を例にとって考えれば、比較的労賃が安い均質な労働者が品質の高い製品を効率的に生産することができていた時代には、産業資本主義による利潤を得ることができた。しかし、ポスト産業資本主義においては、情報の差異が利潤の根源だから、人材の均質性は不利な条件になっているだろう。
完全市場であれば、このようなプロセスで価格体系の平準化が進み、一方で利潤を獲得するためのイノベーションが進む。しかし、現実には、人為的に作られた差異があり、それが価格体系の平準化をさまたげ、既存権益として特定の主体の利潤の獲得が継続される。たとえば、独占や寡占、政府による制約、許可、関税などである。
グローバリゼーションは、利潤を求める人がいる以上、ある意味「自然」な現象である。冒頭で、それに対して「イズム(主義)」という接尾辞をつけることの不自然さを指摘したが、もしグローバリズム反グローバリズムという言葉が成立するとすれば、差異を通じた利潤を求める行動に対する政府の規制に対する立場、賛否ということなのだろう。グローバリズムは、政府によって規制をしないことが望ましいと考え、反グローバリズムは政府による規制を望むという立場である。
確かに、教科書的な経済学で言えば、市場の失敗という現象があり、場合によっては政府の介入によってそれを是正する可能性もある。反グローバリズムの立場の人は、環境保護主義者が多いが、環境破壊は市場の失敗の典型例だからこれは理解できる。この意味での反グローバリズムには一定の共感、同意をする。ただし、実際に政府が市場の失敗をどこまで是正しうるか、また、グローバル化のメリットと政府の介入によるデメリットの比較考量が必要で、実際には政府の規制が望ましい場合は想像より限定的ではないかと思っている。
しかし、反グローバリズムの立場の人の多くは、政府による市場の失敗の是正を求めているのではなく、既得権益化した規制の維持を望んでいるのではないだろうか。
反グローバリズムの運動が大きく盛り上がったのは、モントリオールでのWTO会合であるが、関税の切り下げ、貿易の自由化は、それまで関税によって「人為的」に作られてきた国内外の価格体系の差によって利潤を得てきた人にとっては不利益である。世界、国全体にとってはグローバリゼーションのメリットは大きいけれど、個別の主体にとってはデメリットとなる。だから反対している。
このような意味での反グローバリズムに対しては、基本的には、制度の移行期間を限って政府を通じて補償をすればよく、グローバリゼーション自体を規制することの意味はないと思っている。
具体的にいえば、農業は典型的な分野である。関税の切り下げによって成立しなくなる農家、農業者に対しては一定期間補償をすることで手当てをし、関税そのものは切り下げるべきだと思う。私は、チーズが好きだけれども、輸入チーズは高すぎると思っている。コメの値段が世界に比べて数倍というニュースを見て消費者はもっと怒っていいと思う。
しかし、既得権益の擁護は、しばしば、市場の失敗を隠れ蓑にしている場合がある。農業がコミュニティや環境を保全しており、それを維持するためにグローバリゼーションに対して規制が必要だ、という形で主張される。
この主張が成立するには、かなりのハードルを超えることが求められる。まず、農業が本当にコミュニティや環境を保全しているか明らかにする必要がある。また、仮に、関税を維持してグローバリゼーションに対する規制をしたとして、将来にわたって農業が維持されるか、また、維持されたとしてもその農業がコミュニティや環境保全をし続けるのかが明らかにされなければならない。また、補償による農業維持に比べ、関税の方が優れていることも示す必要がある。多くの場合には、目先の既得権益の保護より、将来のありうべき農業やコミュニティ、環境保全のありようを考えたほうが生産的なのではないかと思う。
最後まで読まれた方(はどれぐらいいるのだろうか?)、だらだらとした文章にお付き合いいただきありがとうございます。結局、私自身は、グローバリストということなんだろう。たぶん。