「グローバリズム」の歴史的展開:「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を読んで

グローバリズム」の歴史の起点

近年「グローバリズム」の是非について語られることが多いけれど、「グローバリズム」は昨日今日はじまったことではない。「グローバリズム」の問題について考えるためには、現代の「グローバリズム」だけに着目するのでは十分に理解できないと思う。そこで、ここ数年、「グローバリズム」の歴史的展開や、現代と過去の「グローバリズム」を比較するため、関連する本を少しずつ読み進めている。

それでは、「グローバリズム」の歴史的な起点はどの時期にあるのだろうか。モンゴル帝国によってユーラシア大陸が一体化した時期を「グローバリズム」の起点とする見方もある。マルコ・ポーロ東方見聞録」のヨーロッパと中国を往復した旅行は、このモンゴル帝国の成立によって可能になったものである。また、帝国主義によって世界が分割され、本格的に一つの市場に統合された19世紀半ばを「グローバリズム」の成立期とする見方もある。

イマニュエル・ウォーラーステインは、現代の世界はヨーロッパを中核とした「近代世界システム」に覆われていると指摘している。この「近代世界システム」は、モンゴル帝国と直接的な関係は深くない。また、19世紀半ばを起点とすると、なにゆえヨーロッパが「近代世界システム」の中核となり得たのか、その起源、由来を見ることができない。そこで、私は、「近代世界システム」の起点であるクリストファー・コロンブスが新大陸航路を、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見し、大航海時代が本格的に始まった15世紀末から16世紀初頭以降の「グローバリズム」の歴史を追いかけている。

マルコ・ポーロ 東方見聞録

マルコ・ポーロ 東方見聞録

 

 

 16世紀のコンキスタドールの過剰な残虐さ

最近、ラス・カサス「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を読んだ。この本は、キリスト教聖職者ラス・カサスが、スペイン人コンキスタドール(征服者)による「新大陸」での略奪、虐殺の状況を告発したものである。「グローバリズム」の歴史の最初期の状況がよくわかる。

ラス・カサスは「私は人間業とは思えない、凶暴な獣が行うような数多くの非常に忌まわしくて恐しい残忍な所業を語るのに疲れた」と書いているが、実際、次から次へと残虐な略奪、虐殺の記述が続き、読むのもいささか疲れる。ラス・カサスはコンキスタドールを告発することを目的としているから、特に残虐な事例を集めていたり、誇張しているところはあるだろう。しかし、本書は同時代の記録であり、スペインが植民化した西インド諸島で先住民が絶滅していることは歴史的事実だから、略奪、虐殺が一般的に行われていたことは疑い得ない。

現代人である私の目から見ると、なにゆえコンキスタドールがここまで残虐な行動をしたのか不思議に感じる。ラス・カサスによれば、コンキスタドールは先住民を支配するために恐怖感を与えることを目的としてあえて残虐なことをしたという。しかし、先住民が絶滅してしまえば、コンキスタドール自身も略奪、収奪する対象がなくなってしまい、むしろ困るのではないだろうか。

インディアスの破壊についての簡潔な報告 (岩波文庫)

インディアスの破壊についての簡潔な報告 (岩波文庫)

 

 18世紀の探検者の過剰な科学性

一方、コンキスタドールの略奪の200年後、18世紀の探検者キャプテン・クック「クック太平洋探検」を読むと、先住民に対する態度が大きく変化していることがわかる。

 クックたち探検者と太平洋の先住民との関係は必ずしも平和なものばかりではない。クック自身もハワイでの先住民とのトラブルによって殺害されてしまう。また、ニュージーランドマオリ族とのトラブルで、太平洋探検に参加したアドベンチャー号の乗組員10名が殺害される事件も起こっている。

当然、クックは、先住民とはかなり慎重に接触しているし、必要であれば銃器によって威嚇をし、場合によっては懲罰を与えたり、殺害する場合もある。しかし、「インディアスの破壊についての簡潔な報告」に見られるような過剰な残虐さはない。先住民への威嚇は、現代人の目から見ても合理的な範囲に収まっている。

クックの主な任務は測量だから、詳細な海図を作成しているようだ。しかし、その任務の範囲にとどまらず、先住民の文化に対しても詳細な観察をし、膨大な記録を残している。コンキスタドールに対してはなにゆえそこまで先住民に対して残虐なのか不思議に感じるが、クックに対してはなにゆえそこまで先住民を詳細に観察しているのか不思議である。探検隊に求められた範囲、必要性を超えた過剰な科学性があるように思う。

クック 太平洋探検〈1〉第一回航海〈上〉 (岩波文庫)

クック 太平洋探検〈1〉第一回航海〈上〉 (岩波文庫)

 

 過酷な身体刑から近代的な合理的な刑罰へ

ラス・カサス「インディアスの破壊についての簡潔な報告」の残虐なエピソードの羅列を読みながら、ミッシェル・フーコー「監獄の誕生」を連想した。

「監獄の誕生」によると、近代以前、犯罪は王への反逆とみなされており、刑罰は王の権力を顕現させるための見世物としての過酷な身体刑だったという。ラス・カサスは、コンキスタドールによる先住民に対する拷問、処刑を繰り返し報告しているが、おそらくその当時のスペインにおいても同様の残酷な見世物としての過酷な身体刑が行われていたのだろう。

一方、18世紀後半、ブルジョワジーが台頭とするとともに、犯罪は財産権への侵害となった。そして、処罰の目的が犯罪の防止となり、犯罪と処罰を合理的に対応させた法体系の整備が進んだ。これはまさにクックの先住民に対する態度に対応している。

コンキスタドールが彼ら自身の個性として残虐だったわけではなく、その時代のスペインの残虐さが新大陸でも発揮されたものであり、また、キャプテン・クックの冷静さもブルジョアジーが台頭した時代背景に裏付けられたものなのだろう。

監獄の誕生―監視と処罰

監獄の誕生―監視と処罰

 

 

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 金儲け主義と資本主義の精神

マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」によれば、「金銭欲の衝動」は普遍的に存在していたという。「金銭欲の衝動」に基づく「金儲け主義」においては、利潤は個人の欲望のために消費されてしまったり、金銭欲が満たされるとそれ以上働こうとしなくなったりする。

しかし「資本主義」は単なる「金銭欲」に基づく「金儲け主義」とは大きく異る特徴がある。「資本主義」では、利潤は欲望のために消費されず、次の「金儲け」のために再投資され、その結果、ますます「金儲け」が進み、資本が持続的に膨張し続ける。

欲望のために金儲けする、金銭欲が満たされると働かなくなる、ということは、ある意味合理的で自然な行動である。一方、利潤を再投資し、「金儲け」それ自体が自己目的化する、ということはかなり不自然な行動である。マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理が、このような資本主義の不自然な行動の背後にあると指摘している。プロテスタンティズムの倫理が資本主義の背後にあるというマックス・ヴェーバーの学説は現代では否定されているようだけれども、資本主義が不自然なストイシズムに支えられているという指摘自体は正しいと思う。

コンキスタドールの行動原理は、短期的に金を得ることに集中している。ひとつの地域で略奪の限りを尽くし、そこが荒廃すると次の地域に移っていく。同じ地域から継続的に収奪することは考えていない。これは前資本主義的な「金儲け主義」そのものだと思う。

コンキスタドールと比較すると、キャプテン・クックの過剰な科学性は、資本主義の不自然なストイシズムに繋がっているように見える。直接「金儲け」に結びつかないような詳細な調査報告は、中長期的には継続的な資本の増大に結びつく。現在の中南米が北米と比較して低開発の状態にあるのは、スペインの植民地主義が資本主義の精神にかけていたことも原因のひとつだろう。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

  

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 「グローバリズム」の歴史的展開

ラス ・カサスが描く16世紀のコンキスタドールの残酷な略奪、殺害は、前近代的、前資本主義的な文化、精神に結びついている。一方、18世紀のキャプテン・クックの探検は近代的、資本主義的な精神に支えられている。

「インディアスの破壊についての簡潔な報告」の表紙に「形態は変貌しつつも今なお続く帝国主義と植民地問題への姿勢をきびしく問いかける書である」と書かれているが、この本に描かれているコンキスタドールと近代の帝国主義植民地主義には断層があるように思う。

18世紀の近代資本主義の成立は「グローバリズム」のもっとも大きな転換点のひとつなっている。コンキスタドールキャプテン・クックの比較で見たように、ヨーロッパからその他の世界へのアプローチのありようも大きな変化が起きている。