ヒルビリー・エレジー

ヒルビリー・エレジー」

トランプ大統領当選の要因の一つとして、いわゆるラストベルトの貧困に陥った白人層の支持があったといわれている。最近、鉄鋼やアルミニウムへの関税が話題になっているが、これは彼らを意識した政策なのだろう。

この「ヒルビリー・エレジー」は、まさにそうした白人のコミュニティに生まれ育った作者の半生が描かれており、当時アメリカでベストセラーとなった。

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

 

ヒルビリーとは、18世紀にアメリカに移民したスコッツ=アイリッシュの末裔で、オハイオ州ニューヨーク州からアラバマ州ジョージア州にまたがるアパラチア山脈(グレーター・アパラチア)に住む人々で、アメリカ北東部に住む「WASP」とはアイデンティティを異にする集団である。ヒルビリーたちにとって、貧困は「代々伝わる伝統」 という。「先祖は南部の奴隷経済時代に日雇い労働者として働き、その後はシェアクロッパー(物納小作人)、続いて炭鉱労働者になった。近年では、機械工や工場労働者として生計を立てている。」

作者は、アパラチア山脈に住むヒルビリーの子孫で、祖父は製鉄所に労働者として勤務していた。祖父は安定した収入を得ていたが、子、孫の代になると典型的なラストベルトの貧困層に落ち込んでしまう。作者自身は、高校卒業後に海兵隊に入隊したことが大きな転機となり、最終的にはイェール大学のロースクールに進学し、成功を収める。もちろん、ヒルビリーのなかでアイビーリーグの大学に進学、さらに言えば、大学への進学する人も少ないという。

左翼に見捨てられた人々

ヒルビリーたちは、アメリカに移民したときから現在に至るまで、貧困がつきまとっているという。しかし、それでも中西部に工場が進出し、労働者として雇われていた時代は、労働組合の存在もあり、比較的恵まれた時代を過ごしていたようだ。製鉄所に勤めていた作者の祖父は、労働組合への帰属意識が強く、民主党支持者だったという。

しかし、アメリカでの重工業が衰退し、工業地帯がラストベルトと呼ばれるようになると、当然、雇用が減少し、工場労働者を組織していた労働組合の力も衰え、ヒルビリーたちはより困窮する。そんなとき、左翼からは手が差し伸べられなかった。

私は左翼を好んでいないので辛口になってしまう。左翼は、社会のなかで恵まれない人々の側に立つことを目指しているのだろう。しかし、あらゆる恵まれない人々の側に立つのではなく、恵まれない人のなかで「選り好み」があるように見える。

労働組合が衰退した後、左翼の重点はマイノリティへ移ったようだ。ヒルビリーたちは、労働組合から放り出されてより厳しい立場になったとき、マイノリティとはいえない彼らは左翼に見捨てられてしまった。

彼らが民主党に投票しないのは当然の結果のように見える。

多様性(ダイバーシティ)の厳しさ

ヒルビリーたちは、現代のソフィスティケートされた都会の人たちから見ると、非常に「荒くれている」ように見える。銃を持ち歩き、暴力は日常茶飯事で、家族が侮辱されると無条件で反撃しなければならないと考えている。アパラチア山脈で孤立した生活をしているときは、文字通り自分の身は自分で守らなければならなかったのだろう、そのときの文化を現代でも引きずっているように見える。そして、そのような文化が、現代のアメリカの主流の社会に入ることを妨げ、貧困から抜けられない大きな原因となっている。

多様性(ダイバーシティ)を重視するのであれば、そのようなヒルビリーたちの文化も尊重しなければならない。しかし、主流の社会とさまざまな摩擦がある。例えば、ヒルビリーたちは銃規制に反対する人が多い。東海岸の大都市のインテリとは、お互いほとんど共感しあうところがないだろう。

これはどうすべきなのか。文化人類学者がカンニバリズムに遭遇したらどのような態度を取るべきか、そのような問題に似ていると感じた。

理不尽な特訓の意味(海兵隊のブートキャンプ)

上にも書いたが、この作者は海兵隊に入隊し、新兵の訓練、ブートキャンプを経験して大きな転機をつかむ。

海兵隊は、まったく何も身についていない人が新兵となることを想定し、基本的な生活習慣を含め、一から身につけさせるという。一種の教育機関として機能を持っていることがわかる。しかし、その方法は、極めて厳しく、いっかいとことんまで個人の尊厳を否定するような理不尽な特訓を体験させる。

私は、体育会系になじめない方だ。だから、理不尽な体育会系の特訓は受けるつもりはないし、意味がないように思っている。しかし、この海兵隊のブートキャンプは、少なくともこの作者にとっては大きな肯定的な意味を持っていた。

確かに、海兵隊には自ら志願するのだが、民主的な社会のなかでこのような理不尽な特訓にどういう意味があるのか、考えさせられてしまった。答えはでないけれど。