個人の自立と民主主義

最近、福島第一原子力発電所の事故をきっかけに、なぜ、日本の原子力行政が暴走してしまったのか、また、暴走を止めることができなかったのか、ということを考えている。
以前のエントリー(日本語版「日本は民主主義国家なのか」 (id:yagian:20110628:1309230821)、英語版" Is Japan Really a Democratic Country?" (http://goo.gl/zwqie))では、マクロの視点から、サブガバメントとしての「原子力村」について考えてみた。
この日記について、アメリカ人とフランス人からコメントがあって、なかなか興味深かった。
アメリカ人は、「原子力村」が日本の原子力行政を支配しているならば、なぜ日本人は行動をしないのか、行動しなければ求めるものは得られない、と書いていた。一方、フランス人は左翼支持者なのだが、ストレートに国民の意志が政府に反映しないということは認めつつも、次の国政選挙で左翼が勝利してフランスの原子力政策が転換されることを期待していると書いていた。
たしかに、私のエントリーは、「原子力村」と日本のサブガバメントの歴史を客観的な視点から書いていたから、あたかも「原子力村」の支配が所与のもののような印象を与えたかもしれない。
アメリカ人は、民主主義を信じており、それを実現するためには国民の行動が必要だと考えている。フランス人は、アメリカ人ほど民主主義を信じていないけれども、しかし、国民の投票行動を通じた政権交代を通じた政策転換には期待を懸けている(左翼政党に期待を持つことができるフランスと、左翼政党がどこかに行ってしまった日本との差も興味深いが)。今回は、個人の観点からこの問題に考えてみようと思う。
@icchanさんのツィート(http://goo.gl/mlWQv)に、「丸山あたりもそういうことを言ってたのかな?読みなおしてみよ〜」と書いてあった。それにも刺激されて「超国家主義の論理と心理」が収録されている「丸山眞男セレクション」を読んでいる。
丸山眞男のロジカルな考察を読むのは単純に気持ちいい。私は自分のことをハイエク主義者と考えている。世間的な分類では、右翼、保守主義者に分類されている。一方、丸山眞男は、「進歩的文化人」の代表格だから、マルキストではないにせよ、左翼に分類されている。しかし、ハイエク丸山眞男も自立した個人が自らの判断、意志で行動することに基礎をおいた(やや古典的な)近代的な民主主義社会を理想としていることは共通している。丸山眞男福沢諭吉を高く評価しているが、福沢諭吉ハイエクはイギリス経験主義を介して通じ合っている。丸山眞男の所論にはなるほどと頷かされることが多い。
民主主義が個人の自立に立脚しているとしたら、日本は近代的な民主主義が成立しておらず、プレモダンからそのままいつのまにかポストモダンに突入してしまったように思える。
アメリカに完全な民主主義が実現しているとはまったく思わないけれど、アメリカ人と話をしていると彼らがアメリカ流の民主主義の理念を強く共有していることが印象的である。時としては、そのアメリカ流の民主主義を他国に押し付けることで、反発を受けたり、国際関係をこじらせる原因にもなっている。しかし、その理念がアメリカという国の基礎になっていることは間違いない。
陪審員制度というものがある。この背後には、専門家の判断よりは一般の市民が理性的な思考と合議によって至る結論の方が、妥当性があるという強い確信があるのだと思う。もちろん、実際の陪審員による判決は完璧なものではないし、しばしば批判される。しかし、だからと言って市民による陪審員制度を廃止して専門家である裁判官に委ねるべきだという議論は聞かない。基本的に、あらゆる公的な決定は、自立した市民による判断に基づくべきだという確固たる理念がある。
そのような理念が「正しい」かどうかはそれぞれの人の見方によって異なると思うが、少なくとも日本においてはアメリカ流の民主主義の理念が共有されていないことはい事実であると思う。裁判員制度は、そのような民主主義国の制度を参考にして導入されたが、裁判員を担う国民の側に、裁判という公的な決定に市民としての自分が主体的に関与すべき、という理念が欠けているように思える。
私は、民主主義は完全な制度だとは思っていないが、ハイエク主義者としては、独裁体制、君主制テクノクラートによる実質的な支配にくれべれば、民主主義がよりましな体制だと思っている。また、歴史もそのことを証明していると思う。もし他により望ましい体制があるのであれば、それを示して欲しいと思う。
丸山眞男は、そのような自立した個人という理念が、国民に欠けていただけではなく、支配者にも欠けていたことを「超国家主義の論理と心理」で次のように指摘している。

…本来の独裁観念は自由なる主体意識を前提としているのに、ここでは凡そそうした無規定な個人というものは上から下まで存在しえないからである。一切の人間乃至社会集団は絶えず一方から規定されつつ他方を規定するという関係に立っている。戦時中に於ける軍部官僚の独裁とか、専横とかいう事が盛んに問題とされているが、ここで注意すべきは事実もしくは社会的結果としてのそれと意識してのそれとを混同してはならぬという事である。意識としての独裁は必ず責任としての自覚と結びつく筈である。ところがこうした自覚は軍部にも官僚にも欠けていた。
 ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識を持っているにちがいない。然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく何者かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。我が国の不幸は寡頭勢力によって国政が左右されていただけでなく、寡頭勢力がまさにその事の意識なり自覚なりを持たなかったことに倍加されるのである。
(pp74-75)

また、孫引きになるが、東京裁判のキーナン検察官の最終論告を引用したい。

元首相、官僚、高位の外交官、宣伝家、陸軍の将校、元帥、海軍の提督及内大臣等より成る現存の二十五名の被告の全ての者から我々は一つの共通した答弁を聴きました。それは即ち彼等の中の唯一人としてこの戦争を惹起することを欲しなかったというのであります。これは十四カ年の期間に亘る熄む間もない一連の侵略行動たる満州侵略、続いて起こった中国戦争及び太平洋戦争の何れにも右の事情は同様なのであります。…彼等が自己の就いていた地位の権威、権力及責任を否定できず、又これがため全世界が震撼する程にこれら侵略戦争を継続し拡大した政策に同意したことを否定できなくなると、彼等は他に選ぶべき途は開かれていなかった、と平然と主張します。
(p149)

確かに、第二次世界大戦において、日本の支配者には主体的に独裁をしていた意識に欠けていたようだ。さらに言えば、日本のサブガバメントを構成する人々も自らが自らの主体的な決断に基づいて政策を決定し、実行しているという意識に欠けているように見える。それだけに、選挙を通じた政権交代によって方針転換が難しく、民主主義が機能しないという結果を招いていると思える。
おそらく、今後原子力政策の責任の追及がされたとき(追及すらなくあいまいなまま終わってしまうかもしれないが)、「これら侵略戦争を継続し拡大した政策に同意したことを否定できなくなると、彼等は他に選ぶべき途は開かれていなかった、と平然と主張します。」と同じような言い訳が聴かれるだろう。実際、未だに「原子力村」の住民は「彼等は他に選ぶべき途は開かれていなかった」し、今でも「彼等は他に選ぶべき途は開かれていない」と主張している。
その意味では、今回の菅直人総理大臣の「脱原発宣言」は評価したいと思う。確かに、国民の支持を獲得して政権の延命を図りたいというマキャベリズム的、ポピュリスト的動機があるのは間違いないし、自然再生エネルギーを過大評価してそのフィージビリティを冷静に判断していないのではないかという疑惑があるし、組織的にエネルギー政策・計画を立案できるとは思えないので、彼の「脱原発」が将来大きな禍根を残さないか不安である。しかし、今回の宣言は主体的な個人としての意志の表明だと思う。「脱原発」するのかしないのか、まさにそれを争点として選挙をすることで、エネルギー政策の方向性について国民の意志が政策に反映されることになると思う(個人的には、「脱原発」には賛成だが、菅直人にその実行を委ねることに大いなる不安を抱いて、彼に投票しないかもしれないけれど)。
これまで政治改革には(小泉純一郎による構造改革は例外だと思うが)、失望を続けてきた。政治家の主体意識や民主主義の理念の欠如にも大きな原因があると思うが、同時に、自ら判断することを放棄して、テクノクラートスペシャリストに判断を委ねることを肯定してきた国民にも大きな責任があると思う。その意味では、菅直人の自らの政権の延命のためというその動機はともかくとして、仮に彼が「脱原発」を争点とした解散をおこなったら、国民に大きな選択が委ねられる可能性がひらけたことになる。これを学習の機会として、国民の民主主義的な意識、理念が浸透することを望む。

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)