スノビッシュのつもりはなくてもスノビッシュに見えてしまう(のか?)

スノビッシュなやりとり?

大学時代からの友人の稲本と、Facebook上で次のようなやりとりをした。このやりとりは、そのつもりはなくともスノビッシュに見えてしまうもしれない、と気になった。

Inamoto Yoshinori まあ、東京の飲食方面を肯定的にとらえれば、擬似的に空間をつくってそこで酒を飲んだり(イングリッシュパブ風のものをつくるとか)、文脈を持ってきてストーリーを楽しんだり(うんちくを語るのはこれかな?)、別種の楽しみを見つけたりして遊んでる感じかな。うわすべりにすべりつづけて百五十年。

Takeshi KC Takagi 上滑りに滑らなきゃならないのは確かだねぇ。でも、まあ、涙を飲んで上滑る、というほど、悲壮でもないかな。

やや、解説をしたい。

稲本の「うわすべりにすべりつづけて百五十年。」という言葉は、夏目漱石の「現代日本の開化」という講演のなかの言葉を踏まえている。漱石ファンであれば、すぐ気がつくぐらい有名な言葉だと思う。

これを一言にして云えば現代日本の開化は皮相上滑(うわすべり)の開化であると云う事に帰着するのである。無論一から十まで何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激の言葉は慎つつしまなければ悪いが我々の開化の一部分、あるいは大部分はいくら己惚(うぬぼれ)てみても上滑(うわすべり)と評するより致し方がない。しかしそれが悪いからお止よしなさいと云うのではない。事実やむをえない、涙を呑のんで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。

 夏目漱石 現代日本の開化 ――明治四十四年八月和歌山において述――

このコメントに返事に「それは、漱石だね」と直接的に書くのは野暮な感じがすると思った。そこで、講演の内容を踏まえた返事を書くことにした。引用部分の最後を読んでもらうとわかるように、漱石は「涙を呑のんで上滑りに滑って行かなければならない」と言っており、それを踏まえて「でも、まあ、涙を飲んで上滑る、というほど、悲壮でもないかな。」と書いた。

この漱石の講演を知っている人はわかるし、そうでない人からみると何を言っているのかちょっとわからないやりとりになっている。

スノッブの定義

ネット上にある辞書(the Cambridge English Dictionary)を引いてみると、こんな定義が書いてあった。日本語でいうところの「スノッブ」というより、これは「権威主義者」「事大主義者」に近いように思う。

a person who respects and likes only people who are of a high social class, and/or a person who has extremely high standards who is not satisfied by the things that ordinary people like:

dictionary.cambridge.org

次は英語の俗語辞典(Urban Dictionary)で検索すると、日本語でいうスノッブの語感に近い定義がでてきた。要するに「俗物根性」というもの。

Anyone who thinks they are better than someone else based upon superficial factors.

www.urbandictionary.com

次は日本語の辞書(大辞林)で「スノッブ」を調べてみよう。意味的には上の定義とほぼ同じだろう。

教養のある人間のように振る舞おうとする俗物。えせ紳士。

www.weblio.jp

まとめると、スノッブとは、自分の実力ではなく、外部権威に形式的に依存して、自分をえらく見せようとする人のこと、ということなのだろう。

スノッブのつもりはなくてもスノッブに見えてしまう(のか?)

夏目漱石の言葉を借りてやりとりをする、ということはスノビッシュなのだろうか。

私自身、そしておそらくは稲本も、漱石が文豪で権威があるから読んでいるわけではなく、単純に好きだから読んでいる。そして、この「現代日本の開化」も、漱石の観察の鋭さに感心をし、漱石の「現代」だけではなく、私の「現代」にも通じている、と思っている。

夏目漱石」の「権威」に寄りかかった引用だったら、恥ずかしくてとてもできないけれど、その中身に共感しているからこそ引用できる。その気持にはスノビッシュなところはない(と考えたい)。

引用する方は単純に好きで共感しているから引用したとしても、世の中では漱石は「権威」ある「文豪」である。その文章だけ読めば、「権威」を借りて世の中を揶揄しているようで、いかにもスノビッシュに見える。

 自分がスノビッシュに見えてしまうのかどうかを気にしている時点でスノッブということなのかもしれないが、今回のようにスノビッシュなつもりがなくともスノビッシュに見えてしまうようなことが、たまにあると感じている。

まあ、だからなんだ、ということもないのだけれども。