共感

小林秀雄「考えるヒント」(文春文庫 ISBN:4167107120)のなかの「批評」という文章を読んでいたら、こんな一文にぶつかった。

……自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への賛辞であって、他人への悪口で文をなしたものはない事に、はっきりと気附く。そこから率直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ。

このウェブログで書いているのは、批評ではなく感想文だが、そのなかで、他人への悪口を書くこともあるし、他人への賛辞、共感を書くこともある。自分が書いた文章を読み返してみて、悪口と賛辞のいずれがよいできか、正直にいってよくわからない。小林秀雄が書くように、賛辞の方がよいできだ、とも断言できないようにも思う。しかし、書いているとき、悪口を書くのは簡単だが、賛辞、共感を書くのはむずかしいと感じている。
また、小林秀雄は、批評することについて、次のように書いている。

 ある対象を批判するとは、それを正しく評価する事であり、正しく評価するとは、その在るがままの性質を、積極的に肯定する事であり、そのためには、対象の他のものとは違う特質を明瞭化しなければならず、また、そのためには、分析あるいは限定という手段は必至のものだ。

この一文には疑問を感じる。はたして、「正しく評価する」「在るがままの性質を、積極的に肯定する」ということができるのだろうか。自分が何らかの対象を認識するとき、はたして「在るがままの性質」を認識し得たのか、また、はたして「正しく」評価し得たのか、ということについて、どうやって確信を得ることができるのだろうか。自分なりの確信を得たとしても、それを他の人と共有することができるのだろうか。小林秀雄であればできるのかもしれないけれど、少なくとも自分にはできないし、それゆえ、賛辞、共感を書くことはむずかしいと感じるのである。
悪口を書くときは、その対象の事実誤認や論理の矛盾をつけばいい。どんなものでも、完璧であることはほとんどないから、注意深くなればアラのひとつやふたつを探し出すのはむずかしくない。その欠陥が重大のものかはべつとすれば、少なくとも、指摘してた欠陥が欠陥であることをひとに納得させることはできる。事実誤認や論理の矛盾ということがらは、誰もが共有する論理、理性の範囲で説明がつくからである。
しかし、賛辞、共感となると、そう簡単に書くことはできない。なにゆえ自分が共感したのか、ほめたいと思うのか、ということを誰かに伝えようとする、欲張るとすれば、他の人にも同じように共感してもらおうとすると、非常にむずかしい。それは、共感するということは、個人的な選択という側面があって、その理由を論理的に説明しつくことがむずかしい。
小林秀雄は、「在るがままの性質を、積極的に肯定する」ために、「対象の他のものとは違う特質を明瞭化しなければなら」いと書いている。人が何かに対して共感するときには、その対象の特質のうちいずれかの側面に注目している。共感を感じる特質の選び方には、正しい方法が決まっているのではなく、人によってさまざまだ。それゆえ、同じ対象を前にしても、人によって共感したり、しなかったりする。ある対象に共感したことを書くには、なにゆえその対象のその特質を選び、注目したのかを説明しなければならない。しかし、その選択は、論理的に説明できるものではない。
自分の嗜好は、それまでの生活体験、経験によって形作られている。だから、なにかに共感したとき、その共感した理由を説明しようと思うと、大げさに言えば、これまでの自分の人生を洗いざらい書かなければうまく書けたような気がしないのである。小林秀雄自身も、批評文を書くときに、けっして「正しく評価」などをしているとは思えないのである。
九鬼周造九鬼周造随筆集」(岩波文庫 isbn:400331462X)の「書斎漫筆」にこのようなことが書かれていた。

 私は青年時代には一つ一つ心にぴったりとくるような随筆風のものが欲しいと願っていた。……そのうちに、全面的に共感できるものなどは探してもありはしないということに気づいてきた。そういうものは自分で書くより外に仕方ないというように思った。
 それならばそんなものが自分で書けるであろうか。それも到底むずかしいということが今の自分にはわかってきた。我々は自分の心を深く深く掘り下げて行かなければならない。またますます広い眼界を獲得していかなけれならない。我々の心には深きへの憧憬と広きへの念願とがある。その憧憬とその念願とが自分という人間にあってかなり高い度に達せられているのでなければ、たとい自分が真剣になって書くものにも、自分ながらに満足はできるものではない。