なにゆえ中国へ進出したのか

昨日、NHK−BSで「真珠湾への道 1931−1941」という番組の再放送をしていた。近衛文麿の曾孫の近衛忠大と日系アメリカ人五世のジェームズ・タカタの二人が、どうして太平洋戦争が始まってしまったのか、1931から1941の10年間を振り返るという番組だった。
近衛忠大は30歳ぐらいなのだが、容貌あまりにも近衛文麿に似ていて驚いた。そして、近衛文麿の長男である文隆の生涯について始めて知り、それにも驚いた。文隆は、昭和のはじめ、高校から大学時代に、アメリカに留学する。帰国後、近衛文麿の書記官となり、その後、近衛と関係が深かった上海の東亜同文書院に赴任する。その時、重慶に移っていた蒋介石との和平工作をする。そのことが原因となって、陸軍に招集され満洲に赴任することになる。そして、ソ連軍の捕虜となり、11年間抑留され、結局、帰国することなく病死したという。まさに、数奇な運命である。
この番組では、どのようにして太平洋戦争に至ったのか、また、避ける道があったのかを探っていた。日米開戦までの歴史の中で、私がいちばん疑問に感じたのは、なぜ、日中戦争を始め、拡大してしまったのか、ということである。その倫理的な是非は別として、満洲国建国までの日本の行動は理解できなくもない。明治以来、日本は一貫して朝鮮と満洲への進出を進め、ロシア・ソ連を仮想敵国と考えていた。だから、満洲に日本の傀儡政権を作り、実質的に植民地としたことは、ある意味、筋が通った行動だと思う。
しかし、なぜ、日中戦争支那事変を始めてしまったのだろうか。いったい、どのような「出口戦略」があったのだろうか。満洲国と同じように、傀儡政権を作って中国全土を植民地化することが可能であり、また、それを目指していたのだろうか。仮に日本が中国を支配することが可能だとしても、中国を侵略すれば、ロシア・ソ連以外、イギリス、アメリカ、フランスなど中国に利権を持つ国々との衝突が避けられなくなる。帝国主義を肯定するとしても、日中戦争の拡大は、合理性がない。そして、アメリカとの開戦が避けられなくなった最後の分岐点を考えると、日中戦争をなしくずしに拡大し、収拾できなかったことにあるように思う。
日中戦争が拡大してしまったのは、政府が軍部を統制することができず、参謀本部は現地の軍を統制することができなかったことに原因があり、政府は現地の軍が戦争を拡大していったことの追認に終始した。ハインリッヒ・シュネー「「満州国」見聞記 リットン調査団同行記」(講談社学術文庫 ISBN:4061595679)を読むと、昭和9年の時点には、右翼のテロを恐れて合理的な政策の実行はすでに困難になっていたことがわかる。その意味では、日中戦争が始まるはるか以前に国家としての統制は崩壊しており、アメリカとの開戦は避けられなくなっていたのかもしれない。