日本と中国

津田左右吉歴史論集」(岩波文庫 ISBN:4003314093)を読んでいる。戦前に書かれた文章も多いが、古さを感じさせず、読後感が爽快である。
まずは、昭和9年に書かれた「日本精神について」という文章から引用する。

……日本人の気質なり習性なりに日本精神があるというようないいかたをする場合には、その意義での日本精神は必ずしもよいこと美しいことばかりではないはずである。けれども、もともと日本精神というような語が用いられたのは、日本精神がこうであるというよりは、こうでなければならぬという主張からであり、したがってそれは日本人のよい美しい一面を強調していい、または日本人のすべてにそれがなくてはならぬものとして要求せられることをいったものと解せられる。従ってそこから、ややもすれば日本人の気質や習性のすべてをよいもの美しいものとして考える傾向が生ずる。そうしてそれが国家の対外的態度の問題にせられると、自国の行動はすべて批判を超越するものとなり、あるいはそこから危険なジンゴイズムの展開せられる虞さえもある。……
……
……民族生活の種々の側面または時代々々の特殊な様相にそれぞれ日本精神のはたらきもしくは発現があると見るのも、一つの理会のしかたであるが、そう見るにしても、それが民族生活の全体に対して有機的関係を有するものであることと、歴史的発展の過程において或る任務を有っていたという点においての意味のあるものであることを、忘れてはならぬ。或る側面、或る時代の様相がそれぞれ独立した意味のあるものでないことを注意しなくてはならぬである。だから、任意に過去の時代の或る事象を取り出し、そいうしてそれだけを全体の民族生活とその歴史とから切り離して考え、そこに日本精神の何ものかを認めようとするのは、正しい方法とはいい難かろう。神道、武士道、儒教、仏教、多種多様の文学芸術、その間には由来と本質とを異にしたまた過去において互いに相排撃して来たものもあるに拘わらず、それらが種々の人々によって何れも日本精神の発現として説かれているようであるが、その説きかたを見ると、ここに述べた用意のない場合が甚だ多いのは遺憾である。

昭和9年という時代に、「日本精神」という言葉をこれだけばっさりと切り捨てる津田左右吉は、ほんとうに勇気と信念がある。津田左右吉が偏狭な「日本精神」を切り捨てた戦前、戦中だけではなく、現代の日本においても、相も変わらず同じようなジンゴイズムがはびこっている。
津田左右吉は「日本精神」を切り捨てるが、自虐的なわけではない。返す刀で中国を切り捨てる。昭和13年に書かれた「〔『支那思想と日本』初版〕まえがき」から引用しよう。

……民族競争国家競争がはげしくなって来た現代の世界の状勢において支那をどうして立ててゆくかという支那みずからの深いなやみがあり、そのなやみから生じた民族意識国家意識を、もともとそういう意識の弱かった、あるいはなかった、支那人の間に急速に、また強いて、つぎこもうとして、目的のために手段をえらばず目前の謀のために永遠の計を忘れるのが常である、あるいは自己の言動に自己みずから昂奮してその正否を反省することのできない、支那の一部の政治家や知識人の気質から、そうしてまた人々の権勢欲やそれに伴う術策がそれに結びついて、終には国際信義をも無視し人道をも無視するようになったというみちすじのあることをも考えねばならぬが、よしそれにしても、それが特に抗日という形をとって現れたことには、日本の強さに接したところから生じた圧迫感ともいうべきものと、日本を弱いと見たところから生じた軽侮心とが結びついたため、あるいはむしろ軽侮心がおもてに現れて圧迫感がそのうちにつつまれているため、にそうなったという理由があるのではあるまいか。(弱いと見たものに対しては、いかなることもしかねないのが支那の民族性の重要なる一面である。)

昔も今もジンゴイズムがはびこっているのは、日本だけの話ではない。このような中国の認識は、古田博司「東アジア「反日」トライアングル」(文春新書 ISBN:4166604678)に通じる見方である。中国のナショナリズムは、抗日反日という形をとる。中国にナショナリズムが育たず大混乱に陥るよりは、抗日反日という形であっても、ナショナリズムが育って安定してくれる方が日本にとってもありがたいだろう。いつになるかわからないけれども、中国も成熟して、抗日反日を必要としないナショナリズムが獲得されるかもしれない。しかし、それまでは、古田博司が主張するように、中国のジンゴイズムに対しては、反論すべきことは反論すべきであり、そして、その前提として、日本もジンゴイズムから抜け出した成熟したナショナリズムを育てることが必要なのだろう。