戦国時代とフェミニズム

若桑みどり「クアトロ・ラガッツィ」を読み終わった。
以前のエントリーで「まるで外国人が書いた日本の戦国時代の歴史書を読んでいるような不思議な印象がある。それを楽しむことができれば興味深い本である。」と書いた。若桑みどり自身も同じことを感じていたようで、次のような記述がある。

西洋史を学んだ人間にとって日本はまさに異文化の国である。だが、これが私たちの国の歴史なのだ。(下巻P170)

若桑みどりは「外国人の目」を通して、秀吉の好色ぶりや細川ガラシャを死に追いやった細川忠興に対して批判をする。

 望まぬ男に身をゆだねる行為は、戦争に敗北し奴隷になることと同じく人間としての最大の屈辱であり、尊厳の放棄であって、公の職分も地位家門ももたない女にとっては、その身の尊厳を守ることこそ命をかけるべきすべてであった。それを思うと、親や家門を守るために秀吉の肉欲の犠牲に供せられた数百の娘たちの無念と悲惨はもっと歴史の上で語られなければならない。「英雄色を好む」などといった俗っぽいことばで、秀吉の行為を見のがすことは自分自身が男根中心主義(ファロセンチュラリズム)である男性の歴史家のやることである。(下巻p217)

関ヶ原の戦いのとき、細川忠興は家康側についたため、石田三成がその妻細川ガラシャを人質にしようとして屋敷を囲み、ガラシャはキリシタンであったから自害をせず、家臣小笠原少斎に切らせたとされる。……ただおきは関ヶ原の軍功によって小倉三十九万二千石を得た。私は当然このことが釈然としない。……忠興は嫉妬深い夫だったから、ただの人質ではすむまいと思い、まさかの場合には家臣に妻に殺せと言った。戦国の世とはいえ、ガラシャは夫の政治的野心と男の占有欲の犠牲になったのである。死ぬときに、首が切りやすいように髪をたばねて首を差し出したと報告は書いている。(下巻pp373-374)

私自身は、現代の価値観を過去に当てはめて批判をするというアプローチは、あまり意味があるとは思えない。現代とはちがった過去の価値観をありのままに観察することで、自らの価値観を相対化するところに、歴史を顧みる意味があると思っている。だから、フェミニズムの観点から秀吉や細川忠興を批判することに意味があるとは思えないのである。
しかし、「クアトロ・ラガッツィ」が存在意義がないとは思わない。戦国時代を対象にしてフェミニズムの立場から書かれた歴史書は初めて読んだ。「男根中心主義」の歴史家とは着眼点が違うから、これまでの多くの戦国時代の歴史書とはちがった作品になっている。どれだけ歴史そのままに描こうとしても、歴史である以上何らかの偏向は避けられない。だから、さまざまな立場から歴史が書かれて、そのバリエーションが広がって行くことは大きな意味がある。そうした個性ある一つの歴史書として楽しむことはできるだろう。