クリント・イーストウッドシリーズ
あいかわらず、Tsutaya-Discasでクリント・イーストウッドの映画を借りている。「荒野のストレンジャー」「奴らを高く吊るせ」「センチメンタル・アドベンチャー」を観た。
「荒野のストレンジャー」は、クリント・イーストウッドの監督第二作目、自身が監督したウェスタンとしては第一作目である。レヴィ=ストロースは、ひとつひとつの神話ではなく、神話群に着目することで、神話の構造を見いだした。クリント・イーストウッドの映画も、ひとつひとつの作品を独立して享受することももちろんできるけれども、作品群として観ることで、彼が何を語ろうとしているかよりはっきりする。「荒野のストレンジャー」は、亡霊でもある名無しの男の復讐譚という意味では「ペイル・ライダー」と同じテーマの映画ということになる。しかし、物語の構造が対照的で、「ペイル・ライダー」が「荒野のストレンジャー」の二番煎じになっている訳ではない。
「荒野のストレンジャー」では、クリント・イーストウッドが演じる主人公である名無しの男が、住民たちがガンマンたちの復讐に怯えているラーゴという街にやってくる。この街の住民は、かつて用心棒として雇っていたガンマンたちを罠にはめて牢獄に送っていたが、彼らが釈放される日がやってきたのである。名無しの男は、腕が立つところを見込まれて、ラーゴの街の住民に用心棒として雇われることになる。しかし、街の住民と名無しの男の間には信頼関係はなく、名無しの男は用心棒になる代償として、さまざまな無理難題を押し付ける。
この名無しの男は、しばしば悪夢を見る。それは、ラーゴの街のかつての保安官が、ガンマンたちになぶり殺される夢である。夢の中で、街の住民たちは惨殺を見て見ぬ振りをして、保安官を見殺しにする。保安官は、ラーゴの街の鉱山が国有地にあることを知り、それを政府に告げようとしていたから、街の有力者に謀殺されたことがわかる。名無しの男は、この保安官の亡霊であることが暗示される。
ガンマンたちがラーゴの街に復讐にやってくると、名無しの男は、街を出てしまう。街の住民たちはガンマンたちに蹂躙され、炎上する。その後に、名無しの男が街に戻ってきて、ガンマンたちを撃ち殺す。こうやって、自分を見殺しにした街の住民たちと自分を殺したガンマンたちへの復讐を成就させた名無しの男は街を去っていく。
「ペイル・ライダー」は、神話的な物語で、主人公は亡霊というより神に近い完全無欠な存在で、金鉱掘りたちと信頼関係に結ばれ、ラストにはカタルシスがある。「荒野のストレンジャー」では、同じ復讐譚であっても、名無しの男も含め、登場人物のすべてが悪を抱えており、街が崩壊するラストもカタルシスに欠ける。「ダーティ・ハリー」のラストにもすっきりとしない苦さがあり、映画の余韻に深みを与えている。「ミリオンダラー・ベイビー」や「ミスティック・リバー」もラストは苦い。「荒野のストレンジャー」のラストは、これらの作品に通じる苦さがある。
「奴らを高く吊るせ」は、マカロニ・ウェスタン三部作の後、アメリカに戻ってから主演した西部劇である。クリント・イーストウッド自身が監督をしていないこともあって、普通のB級西部劇になっている。コメントするところはあまりない。
「センチメンタル・アドベンチャー」は、禁酒法時代の1920年代の中西部を舞台とした少年の成長物語でもあるロード・ムービーである。クリント・イーストウッドは、結核で余命が長くないカントリー歌手レッドを演じている。彼とともにナッシュビルを目指して旅をする甥ホイットの少年の視点から語られる物語である。ラストで、命がけでレコーディングをして、残りの力を使い果たしたレッドをホイットが看取る。レッドを埋葬される霊園に走る自動車のラジオからレッドがレコーディングした曲が流れ、死んだ後にも音楽は残ることが暗示される。
少女からの視点で語られる「ペイル・ライダー」と物語の語り方に共通点がある。「ペイル・ライダー」ではラストで主人公は少女の元からいずことも知れぬ、おそらくは死の世界へ去っていくが、「センチメンタル・アドベンチャー」でも、ラストでレッドは死という形で少年の元から去っていく。その別れが、少女や少年の成長の契機となっている。