日本人と日本語

「日本人」という「国民(ネイション)」を統合する原理のひとつは、「日本語」という「国語」であり、「日本語」を「母語」とする人は「日本人」であり、「日本人」であれば「日本語」を「母語」とする。
地上40,000メートルの高さから「日本人」を俯瞰し、きわめて大雑把に言えば、このように言えなくもない。しかし、地上に降り立ち、個々人を眺めてみると、このような「日本人」の定義から外れるケースはたくさんある。
日本に生まれ、日本語を母語としつつも、日本人ではない人も多くいる。在日韓国人朝鮮人、中国人、また、両親が日本以外の国からやってきて日本で生まれ育ったこどもたち。
逆に、日本人でありながら、日本語を母語としない人も多い。海外で育った帰国子女たちが、英語を流暢に話すことをうらやまれ、逆に、日本語を充分話すことができないことで疎外されることもあるという。(もちろん、英語圏以外からの帰国子女もいる)
また、移民のこどものように、海外に育ち、日本人でないけれど、日本語を母語にする場合もある。(そのようなこどもたち「移動するこども」について、以前、この日記に書いた。 id:yagian:20110122:1295703590)
「国語」としての「日本語」の捉え方によっても、この定義の「日本人」の定義からはみ出す人たちがいる。戦前の沖縄では、沖縄を日本に統合するために標準語教育が行われた。言語の系譜としては沖縄方言(ウチナーグチ)は、「日本語」(ヤマトグチ)は同じ系統に属している。しかし、言語の単位を、その言語を共有する人びとがその言語を用いてコミュニケーションできること、と定義するとするならば、ウチナーグチとヤマトグチは同じ言語、「日本語」とは言い難いと思う。「純粋な」ウチナーグチを話す登川誠仁の語りは、ヤマトグチを母語とする私には理解することはできない。(登川誠仁についてはこの日記に書いた。id:yagian:20110419:1303157863)
「日本語母語話者」ではなく、「日本語話者」まで範囲を広げると、さらに「日本人」とのずれは大きくなる。
現在、第二言語として日本語を学んでいる人は多くいる。そのなかには、日本に住んでいる人も多く、日本語母語話者と変わらないレベルの日本語を話し、また、日本語で小説を書く人もいる。また、韓国や台湾には、植民地政策の結果として日本語話者となった人びとがいる。
ということは、日本語教育を生業とするつれあいからよく話を聞いているし、私自身も頭では理解していた。
最近、lang-8(http://lang-8.com/)で日本語学習者と交流したり、自分自身が英語でインターネットでコミュニケーションをするようになると、「日本人」=「日本語話者」という図式があまりソリッドなものではない、という実感を得るような体験をするようになった。
lang-8で、日本語と中国語を学ぶ人が、日本人と中国人から受ける疎外感について語っているのを読んだことがある。当然ながら「外人」「外国人」"foreigner"ということばには傷つく。それだけではなく、実際には「日本語母語話者」に比べれば日本語の能力はまだまだ低いにも関わらず、日本人から「日本語が上手で」と言われることに傷つくという。確かに、「日本語」は「日本人」のもので、「日本人」以外には習得できないはず、という暗黙の前提を感じて疎外感を感じるのだと思う。その裏腹として、上に書いたように「日本人」であるにも関わらず「日本語」をうまくしゃべれない「日本人」として疎外されるという。
同じようなことは中国や韓国でもあり、在日韓国人が「日本語」を母語とする「韓国人」として、韓国を訪れたときに「韓国語」を話さないことを非難されることがあるという。
「英語」には、イギリスにおける「英語」(イギリスの中でも多様な「英語」が使われているが)、アメリカにおける「英語」、そして、インドにおける「英語」、カナダにおける「英語」、さらには、ピジンクレオール化した第二言語習得者による「国際的な」「英語」がある。私自身も「和臭」がする「英語」を使っていることについて日記に書いた。(id:yagian:20110423:1303546078)そのような私の「英語」も、大きな「英語」世界の一部を構成しているのだと思う。
lang-8で知り合った日本語学習者には、さまざまな言語環境にいて、さまざまな動機で日本語を学習しており、そして、さまざまな「日本語」を使っている。私の「英語」と同じように、第二言語習得者による「日本語」も「日本語」の世界を広げているのだと思う。
lang-8での知り合いのなかでもとりわけ個性的なのは、アフリカで暮らしている女の子だ。彼女の家では、英語とスワヒリ語とフランス語が混ざった独特の"family language"を"create"しているという。lang-8でも、英語とフランス語と日本語がまざった、その日本語もあるときはローマ字で、ある時は漢字かな交じりで、文章を書いている。その文章は、彼女の個性と結びつき不思議な味わいがあるものになっている。もはや「英語」とも「フランス語」とも「日本語」ともつかない、しかし、確かな表現となっているその文章を読みながら、これもひとつの言語表現であり、また、「日本語」の世界が拡がっている現場に立ち会っているという感慨を覚えるのである。