「植民地文学」としての日本文学
読書の記録をしようと思い、読書メーター(http://goo.gl/ZsAG)を使っている。
読書メーターを通じて、私がフーコーを何冊か読んでいることを知った大学院生からメッセージが届いた。英文学を専攻している大学院生で、これからフーコーに挑戦しようとしていという。
彼女への返事を書きながら、そう言えば、「英文学」とは、「英国」の文学なのか、「英語」の文学なのか疑問に思った。
大学時代、アイルランドから来日した老先生とジェイムス・ジョイスの「ダブリナーズ」を講読するクラスを取ったことがある。ずいぶん印象深い授業で、その時のことをよく覚えているし、「ダブリナーズ」は今でも好きで、たまに読み返すことがある(「ダブリナーズ」以降のジョイスはちょっと敷居が高いけれど)。
ところで、ジェイムス・ジョイスは「英文学」の作家と言えるのだろうか。彼は、英語で小説を書いていたけれど、英国の植民地下のアイルランドに生まれ、育ち、ほとんど期間をヨーロッパ大陸で作家としての活動していた。「英語」の文学を「英文学」と呼ぶならばまさに「英文学」である。また、ジョイスの時代のアイルランドは「英国」の一部だったから、「英国」の文学としての「英文学」に含まれるのかもしれない。しかし。ジョイス自身は、自分の作品を「英文学」ではなく、「アイルランド文学」に分類してほしいと考えていたかもしれない。
今や英語で書かれた文学は世界中にある。どこまでを「英文学」に含めるのだろうか。「アイルランド文学」や「アメリカ文学」は「英文学」から自立した存在となっているように思う。
それでは、サルマン・ラシュディ、V.S.ナイポール、カズオ・イシグロは「英文学」に含まれるのだろうか。
サルマン・ラシュディはインド生まれの元イスラム教徒で、イギリスで大学教育を受け、国籍はイギリスであり、現在はアメリカに在住しており、英語で書かれた彼の作品の多くはインドを舞台としている。
また、V.S.ナイポールは、イギリス領だった時代のトリニダード・トバゴのインド系の家系に生まれ、やはりイギリスで大学教育を受け、国籍はイギリスでイギリスに在住し、英語で書かれた彼の作品の多くはトリニダード・トバゴを舞台にしている。
カズオ・イシグロは日本に生まれ、幼少の時イギリスに移住した。英国に育ち、英語のネイティブスピーカーである。日本を舞台にした作品もあるが、それに強いこだわりがある訳ではない。
「英文学」からこの三人を除いてしまったら、現代の「英文学」はずいぶん寂しいものになってしまうだろう。
英語は国際的な言語だから、「英文学」には複雑な出自の作家や作品もある。しかし、よく考えてみれば「日本文学」にも同じようなことがある。当然、「在日文学」もあるし、今では、非日本語母語話者が書いた「日本文学」もある。よくよく考えてみれば、ジョイスがイギリスの植民地であったアイルランドにおいて英語で小説を書いていたように、植民地化していた時期の台湾や韓国/朝鮮において日本語で作品を作っていた人もいたはずだ。
そのような日本における「植民地文学」の事例として、台湾ではいまでも句会を続けている老人がいるのをテレビで見たことがある。残念ながら韓国/朝鮮では、そのような作品もそれをテーマにした研究も見たことがない。
福田和也のデビュー作「奇妙な廃墟」において、フランス本国では省みられることが少ないヴィシー政権下でドイツに協力した作家による文学を扱ったものである。同様に、韓国/朝鮮では、「植民地文学」としての日本文学は省みられることがないのだろう。しかし、日本文学研究の観点から見れば、当然「植民地文学」も研究対象にすべきだろう。
もし、老後、時間ができたら、大学に入りなおして「植民地文学」としての日本文学の研究でもしようかな。
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