フーコーと山口組

重田園江「ミシェル・フーコー」を読んだ。
フーコーの「監獄の誕生」を中心として、筆者のフーコー理解について述べた本である。新書版でさまざまな哲学者、思想家に関する入門書が出版されているが、この本は入門書という気持ちで読み始めると期待が裏切られるかもしれない。
哲学者、思想家の入門書が書かれ、また、読まれるのは、彼らが書く本が難解だからである。彼らの本が難解になってしまうのは、それまで誰も考えたことがなかったこと、また、日常生活のなかでは考えないことについて考え、それを表現しようとしているからである。それゆえ、原典が難解に感じられる。しかし、古典とされている哲学者、思想家の作品にはなにか有益なことがあるような印象があり、入門書を手に取ることになる。
以前、「原典が先か入門書が先か」(id:yagian:20100613:1276407940)というエントリーを書いたことがある。このときは、はっきりした結論は書いていないけれど、今は基本的には原典を先に読むべきであり、さらに言えば入門書はあまり読む価値がないと思っている。
入門書は、難解な原典を理解しやすい形に翻訳しようとする。そのために、複雑な構成を単純な図式に還元して提示する。それで原典のポイントが分かったような気になる。しかし、それは決して原典を理解したことにはならないだろう。
古典と呼ばれるような本は、深みがあり、多義的で、読み手ごとの解釈に開かれている。それだからこそ、長い期間に読み継がれている。枝葉を切り払って幹だけを単純な図式として提示してしまうと、多義的な解釈の余地がなくなってしまう。古典はそこに書かれた内容が意味深いということだけではなく、その読書体験に大きな意味がある。
重田も書いているけれど、フーコーは自覚的に図式化されることを避けている。以前、私自身も「監獄の誕生」を読んでその要約を書いたことがある(id:yagian:20100523:1274563820)。この要約だけを読むと、図式的かつ直線的に議論が進んいるかのようである。しかし、実際の「監獄の誕生」には紆余曲折して不可解な部分も多い。要約は、あくまでも私が理解できたところだけをつなぎあわせたものである。重田の「ミシェル・フーコー」は、「監獄の誕生」をすっきりとした形で図式化して提示したものではない。彼女自身が「監獄の誕生」を読みながら紆余曲折しながら彼女なりに理解していったプロセスが書かれている。その意味では冒頭に書いたように入門書とは言えないかもしれない。
さて、私は第四部第二章を以下のように要約した。

第四部 監禁
第二章 違法行為と非行性

  • 懲罰は犯罪の減少に役立っていないという批判があるが、監獄制度は存続している。それは、監獄制度の役割が犯罪の減少ではなく、前科者のレッテルを付け、彼らを活用することにある。前科者は監視され、また、密告者として社会の監視に利用される。また、前科者たちの逸脱行為は、潜在的な支持者となりうる庶民と切り離されることで、社会制度への反抗ではなく、政治的に危険のない限られた犯罪行為に限られる。

ミシェル・フーコー」ではこの部分について次のように書かれている。

…たしかに監獄は犯罪者を醸成するかもしれない。だがそれはそれで利用価値があるのだ。犯罪行為と政治的行為が結びついて秩序転覆を図る危険を最小限に抑え、犯罪者集団を一般人から区別する。そして許される犯罪の種類や限度を設ける。犯罪が既存の秩序を脅かすどころか、秩序に組み込まれ、ブルジョワジーに役立つ形で存続するなら、ないよりあった方がむしろ好都合なのだ。

 犯罪者を犯罪者集団として囲い込むこと。彼らを裏社会に閉じ込め、犯罪者は違う人種だというイメージを流布させ、一般人と切り離すこと。許される犯罪と許されざる犯罪を区別し、罰と罰の体制を通じて犯罪者のその区別を叩き込むこと。要するに、犯罪者のエネルギーをできるかぎり矮小化しながら利用すること。これが「監獄の失敗」が容認され、放置された理由である。
 フーコーは次のように語っている。
「犯罪のない社会。十八世紀末はこれを夢想していました。でもすぐ変わった。犯罪者集団があんまり役に立ったので、彼らなしの社会なんて考えるのもばかげた、危険なものになってしまったんです。だって犯罪者がいなきゃ警察はいらないでしょ。犯罪の危険がなければ、警察にあれこれされるのを誰が許します?これこそ天の恵みといってもいい。警察なんて最近できたうっとうしい制度、犯罪者集団がいなきゃ誰も認めませんよ。政府を着て武装して(一般人には武装権がないのに)、身分証を見せろと言ったり家の前をうろついたり、犯罪がなければ許されるはずないでしょ。あとは、いかに危険な犯罪者がたくさんいるかを毎日あきもせず書きたてる新聞記事がなければなね」(監獄についての対談)三六五ー三六六頁
(pp207-210)

この部分を読んで、山口組組長司忍のインタビュー記事を思い出した。
産経新聞「全国で暴排条例施行「異様な時代が来た」」
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111001/crm11100112010000-n1.htm
司忍は、フーコーが指摘している「犯罪者集団」の役割を自覚しているかのようである。

今回の条例は法の下の平等を無視し、法を犯してなくても当局が反社会的勢力だと認定した者には制裁を科すという一種の身分政策だ。

山口組を今、解散すれば、うんと治安は悪くなるだろう。なぜかというと、一握りの幹部はある程度蓄えもあるし、生活を案じなくてもいいだろうが、3万、4万人といわれている組員、さらに50万人から60万人になるその家族や親戚はどうなるのか目に見えている。若い者は路頭に迷い、結局は他の組に身を寄せるか、ギャングになるしかない。

一連の流れで思うのは、暴力団排除キャンペーンは警察の都合ではないか。別にやくざ絡みの犯罪が増えているわけではないし、過去にもパチンコ業界への介入や総会屋排除などが叫ばれ、結局、警察OBの仕事が増えた。今回も似たような背景があるのではないだろうか。

まるで司忍がフーコーを読んでいるかのような回答である。暴力団が実際の犯罪者ということではなく「犯罪者集団」として区別されていて、犯罪者のエネルギーを制御、矮小化しているという役割を積極的に自覚している。また、暴力団の存在が警察の役に立っているということも。
暴力団排除が治安の改善に役立つためには、暴力団構成員が更生することが必要である。司忍が指摘するように、単に「暴力団」という組織を排除すれば、犯罪者が野に放たれるだけだろう。
逆に、警察もどこまで本気で「暴力団」を排除することを目指しているのだろうか。暴力団の危険性を強調し、一方で実際には暴力団が完全に排除されることはないことは知っているのだと思う。そうでなければ、警察が暴力団対策を進めながらも山口組が膨張をし続けていることの説明はできないだろう。

ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)

ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)

監獄の誕生―監視と処罰

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