翻訳不要論

インターネットで英語非母語話者と英語でコミュニケーションをしていると、彼らの日常には英語が入り込んでいることを感じる。
日本の英語教育についてさまざまな批判がなされている。私は語学教育の専門家ではないので、国際的に見て公教育における英語教育が、特に日本において劣っているのかは判断できない。しかし、実用的な第二言語の運用能力を習得するためには、どんなに優れた教育方法をしたとしても公教育における教室の中での学習だけでは絶対量が不足しているということは断言できると思う。これは、日本に限られた現象ではない。英語を習得するためには、教室内での学習だけではなく、それなりの量の英語に触れるという体験が必要だと思う(このことについては、「日本の英語教育の成果」(id:yagian:20110917)で触れた)。
日本人の英語能力の不足が指摘されることがあるけれど、結局、日本語圏のなかでは英語を実用的に使わずに済むということが大きな理由だと思う。ある意味幸福なことだけれども、日本において多くの学問領域では概ね日本語だけで大学レベルの教育が可能になる程度の翻訳が行われている。網羅的な調査をした訳ではないから印象論にとどまるけれど、非英語圏において大学レベルの教育がほぼ母国語でできるという言語圏はきわめて珍しい存在だと思う。世界的に見て、何らかのかたちで高等教育を受けた英語非母国語話者の多くは、あるレベル以上の文献が母国語に翻訳されていないという理由で、高等教育では英語の文献を避けて通ることはできないし、また、職業生活においても英語に触れざるを得ないように見える。
英語版ウェブログに書いたことがあるが("Multilingualism and Literature"(http://murl.kz/74iq1))、近代以降の日本語は翻訳と深い関係がある。私は、言文一致運動は、話し言葉と書き言葉の一致を目指したものではなく、西洋語の翻訳ができる日本語の文体を形成するための運動だったと考えているし、文体の側面から見た日本近代文学の起源二葉亭四迷の「あひびき」の翻訳だと思う。また、日本の高等教育制度や多くの学問は、西洋の先進的な成果の輸入と日本国民への普及を目的として成立してきたという背景があるから、「学者」には翻訳とそれを通じた「啓蒙」が重要な役割として求められてきたし、現在でもそのことは続いている。そして、明治以降の日本の翻訳文化は、大きな成果があったと思う。
しかし、もうそろそろそれから卒業してもいい時期に来ているのではないだろうか。
橘玲尖閣諸島問題についてウェブサイトで書いているエントリー「尖閣問題で、海外メディアは日本に対して予想以上に厳しい」(http://murl.kz/uz5W9)のなかで、次の指摘が気になった。

6)日本国内の議論は、日本語の壁のなかでガラパゴス化し、自己完結しているので、海外にはほとんど発信されない。

マスコミは厳しく検閲され、グレートファイアウォールで政府にとって都合の悪いウェブサイトにはアクセスできない中国のインターネットはいわば"the China net"になっていると思う。しかし、日本語圏内で日本語で行われているコミュニケーションの多くは政府によって検閲されている訳ではないけれど、自己完結している。インターネット上で日本語で書かれたテキストは実際には"the Internet"の外で"the Japan net"を構成していると思う。そして、橘玲のような一部の人が「海外の論調」を日本語圏に紹介したり、場合によっては翻訳がされることもある。しかし、非日本語の情報にアクセスすることがきわめて容易になった現在、このようなことでよいのだろうか。
ニューヨーク・タイムスのウェブサイトのなかに、日本に関する記事(http://murl.kz/0uetV)と中国に関する記事(http://murl.kz/RPEVg)を集めたページがある。ここの記事のヘッドラインを定点観測しているだけで、アメリカのインテリの日本や中国への関心の所在や論調がだいたい把握することができる。確かに、インターネットが普及する以前は、ニューヨーク・タイムスを日本で購読し、毎日国際欄を読んで日本や中国の記事だけをスクラップするということは手間がかかることだったから、限られた人だけが海外の情報に直接アクセスすることもやむをえなかったと思うけれど、今は情報流通のインフラストラクチャーはすでに整備されている。
もう一つ大きな問題だと思うのは、日本語圏と英語圏では情報が圧倒的に輸入超過ということである。英語圏で日本としての情報を発信できるはずの人が、もっぱら翻訳に従事しているというのはリソースの無駄遣いではないだろうか。実際、そのように考えて、翻訳などには関心を持たずもっぱら英語で論文を発表している研究者も多い。日本語母語話者の「学者」が翻訳という作業をやめて、本来の「研究者」になれば、学生も否応なく英語の文献を読むことになり、また、英語で書くことに関心を持ち、"the Japan net"の外に出ていくことになると思う。