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大きいことはいいこと、ではない:原子力政策と地球温暖化対策に共通する大きすぎるリスク

古典的なソフトウェア開発手法:ウォーターフォール・モデルとその限界

古典的なソフトウェアの開発の進め方に、「ウォーターフォール」モデルというものがある。ウォーターフォールは、文字通り「滝」という意味である。ソフトウェア開発を「要件定義」「概要設計」「詳細設計」「プログラミング」「テスト」といった段階に区分し、滝が流れ落ちるように後戻りしないように進めていく方式である。

ソフトウェアでどのような機能を実現するか「要件定義」の段階でしっかり決めて、その段階のアウトプットに基いて「概要設計」をする。そうすることで、後工程になってから、「あ、そういえば、こういう機能が欲しい」ということになって、開発が混乱することを避けよう、という発想に基づいている。

実際には、あとになって変更したくなることは多いので、別途「変更管理」というプロセスを用意しておいて、どのような変更を認めるのか、意思決定と混乱なく変更を実現する管理を行うことになっている。

考え方としては整理されていて、これをきちんと実行できればちゃんとしたソフトウェアが完成しそうである。しかし、現実にはコストや納期が大幅に超過したり、最悪の場合は開発途中で放棄されていまったりなど、開発が失敗してしまうことも多々ある。また、「あとで変更したい」と思っても変更できず、ユーザーの満足度が低いソフトウェアができあがってしまうこともある。

ソフトウェアを小規模に分割することでリスクを軽減する:アジャイル開発

これに対して「アジャイル」と呼ばれる開発手法が提案され、最近では採用されることが増えている。アジャイルとは「機敏さ」といった意味である。

アジャイル開発で提唱されている要素は多岐にわたるので、網羅的に紹介するのは手に余るが、今日のエントリーに関連する部分のみを紹介すると、ソフトウェアによって実現する機能を細かい単位に分割して、その単位ごとに短期間小チームで実際に動くソフトウェアを作っていく、というやり方である。

ウォーターフォールでは時間軸に沿って作業を分割している。これに対して、アジャイルでは機能ごとにソフトウェアを分割している。ウォーターフォールでは、プロジェクトが完了しないとじっさいに動くソフトウェアはできないけれど、アジャイルでは部分部分で動くソフトウェアができあがっていく。

ウォーターフォールでは、最後にならないとソフトウェア開発の成否はわからないし、方向転換も難しい。だから、上流部分(「要件定義」などの段階)が重要だと強調される。一方、アジャイルは少しずつ作っていくから、途中で「機敏に」方向転換することが容易だし、開発が途中で打ち切られてもそこまでで作ったソフトウェアは少なくとも使い物になる。

大きいプロジェクト開発は、どんな手法を使っても難易度は高いし、失敗の確率は高く、リスクは大きい。ウォーターフォールは、緻密なプロジェクト管理によってそのリスクに対処しようとするけれど、本質的なリスクそのものは小さくなっていない。だから失敗することもあるし、失敗したときの痛手も大きい。

アジャイルのポイントは、プロジェクトを分割して小さくすることで、リスクを小さくしていることだろう。小さなプロジェクトは、どんなプロジェクト管理をしても、どうにかできることが多い。

大きな政策の大きすぎるリスク

 3.11以来、原子力政策のことを折に触れて考えている。結局、ウォーターフォール・モデルで開発が失敗してしまった巨大システムのように、あれほど大きなシステム、政策はその巨大さゆえにリスクが大きすぎると思う。

例えば、日本の原子力政策では、高速増殖炉プルトニウムを利用する核燃料サイクルを目指し、その実現を前提として組み立てられている。しかし、その鍵となる高速増殖炉の開発は遅々として進まず、その実現性に大きな疑問がある。高速増殖炉もんじゅ廃炉の方針は決まったけれど、全体としての核燃料サイクルの方向性は変わっていない。あまりにも巨大なシステムで、制度や利害関係が輻輳しすぎて方向転換ができなくなっている。これはまさに大きすぎる政策の巨大リクスを代表だと思う。

また、同様に、地球温暖化対策に関する政策も、同じように大きな政策の大きなリスクがあるのではないかと感じる。日本の原子力政策は、実現が不確かな高速増殖炉という技術を前提に大きなシステムを作り、隘路にはまっている。地球温暖化対策も、不確かな根拠で、あまりに大規模な政策を実現しようとしている。いったん進み始めると、あとで大きな後悔をしてもどうにも動きが取れないという事態に陥らないだろうか。

ソフトウェア開発のアナロジーでいけば、問題やシステムは細分化して、リスクを小さくしてから対処するのが安全な方法ではないかと思う。

 バークとハイエクによる主知主義批判

 3.11をきっかけにして、エドマンド・バークフリードリヒ・ハイエクといったヨーロッパ大陸系の主知主義に対抗する保守主義について読んでみた。これらに関わるエントリーへのリンクを以下に張った(ので、関心がある方はご一読を)。

 バークやハイエクは、人間の知性に基いてゼロ・ベースで社会を変革しようとする革命、フランス革命ロシア革命、そして、それによって生み出された体制を批判する。

彼らは直接的にはそのような言い方をしていないけれど、「革命」のような大きすぎるプロジェクトにはリスクがありすぎて、コントロールできないのだ、と主張しているように思う。

主知主義者は、理性によって理想的な社会を構想できるし、また、それを実現できるプロジェクトも管理できると考える。しかし、バークやハイエクは、あまりにも傲慢だと批判する。

確かに「革命」はまさに大きすぎるリスクを抱えた大きな政策の典型例だ。同じように、原子力政策を進めた人たちにも、地球温暖化対策を進める人たちにも傲慢な「主知主義」の香りが漂っている。

yagian.hatenablog.com

 

yagian.hatenablog.com

 

在日ファンクはすなおに楽しめる。しかし、なぜかブルーノ・マーズにわだかまってしまうのはなぜだろう。(附論:ブルーノ・マーズとピコ太郎の世界)

在日ファンとチャン・ギハと顔たちのライブに行く

先月、在日ファンクとチャン・ギハと顔たちのライブに行き、楽しい時間を過ごすことができた。

在日ファンクとは、SAKEROCK星野源とバンドを組んでいた浜野謙太(通称:ハマケン)がボーカルのファンク・バンドである。「在日」と名前がついているけれど、「在日韓国人朝鮮人」とは特に関係なく(いや、まったく無関係なのかはしらないけれど)、「日本二在リテふぁんくヲナス」ことを目指しているところから付けられたバンド名という。


爆弾こわいPV/在日ファンク

チャン・ギハと顔たちは、韓国のインディ・ロック・バンド。詳しいことはよくしらないけれど、韓国のインディ・バンドとしては有名なようだ。


1集収録曲(2集活動時の演奏)チャン・ギハと顔たち(장기하와 얼굴들) - 何事もなく暮らす 2【Korean Psychedelic Rock】

在日ファンクとチャン・ギハと顔たちは、どういう経緯か意気投合をして、一緒にソウル、東京、大阪でライブをすることになった。

私はもともと在日ファンクのファンだった。前にも書いたようにチャン・ギハと顔たちはあまりよく知らなかったけれど、彼らが意気投合するのだから、いいバンドだろうと思っていた。在日ファンクはファンク、チャン・ギハと顔たちはロックとジャンルは異なるけれど、かっこいいサウンドにくだらない歌詞という私が大好きな方向性は共有されていて、どちらのライブも存分に楽しめた。

在日ファンクはすなおに楽しめるけれど、ブルーノ・マーズにわだかまるのはなぜだろう

ブルーノ・マーズの新譜"24K Magic"を聴いて、なんというか、微妙な気分になった。

今回の新譜は、ブルーノ・マーズが好きなファンクを、彼なりの味付けをして提供するというコンセプトなのだろう。例えばこの"Perm"という曲、ジェイムス・ブラウンのスタイルで作られており、しかし、ジェイムス・ブラウンそのままではなくて、現代でもヒットするように仕立て上げられている。


Bruno Mars : Perm 24K MAGIC - Lyric Video

在日ファンクもジェイムス・ブラウンのモノマネといえばモノマネだけれども、すなおに楽しめる。しかし、なぜかブルーノ・マーズにわだかまってしまうのはなぜだろう。

別にブルーノ・マーズジェイムス・ブラウンをバカにしている訳ではないし、単にパクってメシの種にしようとしている訳でもなく、実際に彼の音楽が好きだということも伝わってくる。そして、非常によくできている。

しかし、この"24K Magic"を聴いていると、聴いたことがあるような音楽、しかし現代的にブラッシュアップされている、次から次へと流れてくるが、さっぱり楽しくならなない。ああ、ロジャーね、それで今度はJBで、お次はマイケルか、としらじらと思ってしまう。

別に音楽にたずさわる人はアーティストたれ、とは思わないけれど、現代で最も予算をかけ自由に仕事ができる立場にあり、しかも才能あふれるブルーノ・マーズが作るものがこれなのかよ、という気持ちになってしまう。たしかによくできている。しかし、単によくできているだけ、とも言える。 

附論:ブルーノ・マーズとピコ太郎の世界

タイトル・チューンの"24K Magic"のPVを見たとき、あっ、これってピコ太郎と世界観が同じじゃん、と思った。


Bruno Mars - 24K Magic [Official Video]

ちなみに、ピコ太郎のPPAPはこんな感じ。


PPAPロングバージョン【ピコ太郎】

もちろん、ブルーノ・マーズはおもいきりお金をかけた上でねらったチープさで、ピコ太郎は実際にチープなねらったチープさだけど、世界観は同じだ。今回、PPAPが流行ったきっかけはジャスティン・ビーバーリツイートしたからだけど、それはただの偶然ではなかったのだと思う。

"The President":トランプ大統領のリアリティ・ショー

メリル・ストリープクリント・イーストウッドを「正す」

大統領選挙をめぐるクリント・イーストウッドメリル・ストリープのやりとりが、今回の両陣営の関係を象徴していたと思う。

クリント・イーストウッドは、エスクァイアのインタビューで次のように答えている。

ESQ: But if the choice is between her and Trump, what do you do?

CE: That's a tough one, isn't it? I'd have to go for Trump … you know, 'cause she's declared that she's gonna follow in Obama's footsteps.

(引用者訳) 

エスクァイア:でも、彼女(ヒラリー・クリントン)とトランプの選択になったら、どうしますか?

クリント・イーストウッド:そいつは、究極の選択だよね。トランプにせざるを得ないだろう、だって、彼女はオバマの足跡をたどるって宣言してるし。

www.esquire.com

www.esquire.com

クリント・イーストウッドは、積極的にトランプを支持する、とまでは言っていないし、かつては共和党大会でスピーチをしたこともあったけれど、今回は登壇していない。あくまでも、どちらを選択するかといわれれば、ドナルド・トランプだと言っているに過ぎない。彼はリバタリアンで、一貫して共和党を支持しているから、ヒラリー・クリントンに投票できないということは十分理解できる。 

クリント・イーストウッドがトランプに投票するらしいという話を聞いたメリル・ストリープは次のようにコメントした。

'I didn't know that. I'll have to speak to him. I'll have to correct that!'

(引用者訳)

「知らなかったわ。彼と話さなきゃ。それは正さないと」

www.dailymail.co.uk

"correct that"をどう訳すか迷うところだが、いずれにせよ、メリル・ストリープには自分が正しく、クリント・イーストウッドが間違っている、という認識があるのだろう。

メリル・ストリープヒラリー・クリントンを強く支持するのはよく理解できる。そして、ドナルド・トランプに投票するという人に対してヒラリー・クリントンに投票するよう説得するのも当然だと思う。しかし、一人の独立した大人であるクリント・イーストウッドの判断に対して、"correct"できると考えるのは少々思い上がっているのではないかと感じる。

ドナルド・トランプに投票した人たちの多くは、おそらく、クリント・イーストウッドと同様に、ドナルド・トランプに問題が多いことは理解しているけれど、ヒラリー・クリントンに投票するという選択肢はないと考えたのだろう。

一方、ヒラリー・クリントンの支持者から見ると、ドナルド・トランプに投票することなど論外で、彼の支持者の気持ち、考え方がまるで理解できない、ということなのだろう。

 わかりやすいヒラリー・クリントン、わかりにくいドナルド・トランプ

ヒラリー・クリントンは本心を語っていないので信頼できない、一方、ドナルド・トランプは自分の考えをあけすけに語っている、という評価がある。

たしかに、選挙期間中、ヒラリー・クリントンは繕っていて本心を語っていなかったと思う。そして、敗北宣言後のスピーチでは、ようやく落胆した気持ちについて素直に語っている。

www.huffingtonpost.jp

しかし、ヒラリー・クリントン自身が本心を語っていなくても、彼女の気持ちは見え見えだったように思う。少なくとも私にとっては彼女の気持ちはわかりやすかった。以下のエントリーでは私が想像した彼女の本心について書いてみた。

yagian.hatenablog.com

彼女に比べると、ドナルド・トランプは「繕って」はいないように見えるけれど、その放言のどこまでが本心なのか見極めづらかった。結局、彼はなんのために大統領選挙に立候補し、大統領になったら何をやりたいのかよくわからなかった。

そこで、現段階ではトランプについて書かれた本のなかで、最新かつ詳細、客観的なものと思われるワシントン・ポストの記者による「トランプ」を読んでみた。

以下、この本で印象に残った記述を引用しながら、今後ドナルド・トランプがどのような大統領になるのか考えてみたい。

トランプ

トランプ

 

 ドナルド・トランプとは何者か

 まず、ドナルド・トランプとは何者か端的にまとめるた記述を引用したい。

「トランプ」が意味するのは、野心、富、そして成功を体現することだというメッセージを送りつづけた。トランプの戦略の中には失敗したものもあれば、大金を生み出したものもあったが、すべての中心には、トランプのアイデンティティである「交渉の達人」という入念につくりあげられたイメージがあり、また、成功の原動力となるのは、スタッフや会社ではなく、トランプ自身だという主張があった。(p166) 

ドナルド・トランプは称賛であれ批判であれ、注目されるのはよいことだと考えている。自分のイメージそのままがブランド・イメージになるため、自分そのものがブランドだという信念で生きてきた。(p14)

この記述のなかで、「交渉の達人」と「ブランド・イメージ」という言葉がキーワードだと思う。 

「交渉の達人」としてのドナルド・トランプ

まず、「交渉の達人」の方から考えてみたい。

彼のキャリアは不動産ビジネスから始まっている。新しい商品を作って価値を創造する製造業と違って、彼の不動産ビジネスでは、「安く買って高く売る」ということが中心にある。だから、彼が儲けるためには、安く売る人、高く買う人が必要で、誰かが損をすることになる。だから、ドナルド・トランプの世界は、必然的に

 勝者と敗者しか存在しないトランプのゼロサム的世界(p239)

になる。そして、「ゼロサム的世界」で収益を上げるためには「交渉の達人」であることが必要になる。

ドナルド・トランプがほんとうにすぐれたビジネスマンか、大金持ちなのか、という疑惑があるが、同様にほんとうに「交渉の達人」なのかはわからない。

確かなことは、交渉に勝つためにはどんなことでもすることだ。今回の大統領選挙戦と同様に、嘘もつくし、誇張もする。かんたんに前言を翻す。訴訟に訴え、執念深く交渉をする。楽な交渉相手ではないことは確かだ。

一方、大きな勝利を得るために、時として、リスクを無視した大博打をうち、冷静な損得勘定ができなくなることがある。彼は、複雑な交渉の末に、アトランティック・シティの巨大カジノを手に入れた。このことがビジネスマンとしてのドナルド・トランプを有名にすることに役立った。「戦利品」としてのカジノを豪華に飾り立てることには熱心だったが、カジノの運営にはあまり熱意がなく、また、手に入れる時に大きな負債を背負い、結局は倒産してしまう。

そのようなスタイルゆえに、数回の倒産を経験し、また再起をする、という波が大きいビジネスを繰り広げている。大統領になっても、リスクの大きい大勝負をかけて、大きな成功と大きな失敗を繰り返すかもしれない。

交渉のための「イメージ」づくり

また、彼は「ブランド・イメージ」を重視する。

たとえは悪いが、暴力団を想像するとよいと思う。彼らが交渉で利益を得ることができるのは、いざとなったら暴力を振るうことをためらわない、法に触れることを含めてなんでもする、というイメージがあるからだ。そのイメージを保つために、実際に暴力を振るうこともあるが、毎回暴力を行使するわけではない。重要なのはイメージの方だ。

ドナルド・トランプは、好評も悪評も含め注目されることを目指す。注目されることが好きだ、ということもあるだろうけれど、「交渉の達人」であるためには、悪評も含め交渉に勝つためにはなんでもするというイメージが重要なのだろう。

アトランティック・シティのカジノの倒産の後、雌伏の期間を経て、テレビ番組「アプレンティス」に出演することで復活を遂げる。テレビ関係者によれば、彼がタレントとして才能に恵まれているのは確からしい。

『アプレンティス』によってトランプは、困難な10年間をくぐり抜けてきた自慢屋の大金持ちから、率直さを魅力とする、アメリカの成功神話の伝道者へと変貌を遂げ、視聴率というトロフィーを巡るレースの勝者になったのだ。(p302)

 そして、彼の「ブランド・イメージ」が全米規模に広がるとともに、不動産取引からビジネスの形態が変わっていく。

一銭も出さずに名前だけをライセンスするというやり方をとることで、トランプはたとえ事業が失敗した場合でも、たいていは相当な利益を手に入れることができた。

…自分の名を冠していはいるものの、自らの資金を必要としない事業体を多数つくるのである。

 ブランドこそがトランプの本業だ。(pp311-312)

 「トランプ」の名前が冠してあるビルや開発事業も、必ずしもドナルド・トランプ自身が出資している訳ではない。「トランプ」というブランドをライセンスしている場合が多い。彼の「富豪」というイメージや、マンハッタンの「トランプタワー」の豪華なイメージによって、「トランプ」の名前を冠したビルの不動産価値が上がり、販売が促進される(こともある)。

「アプレンティス」を中心として、トランプ一家が露出し、有名になることで、ブランド・ライセンス・ビジネスの価値を高めることになる。

そういう「悪評」が「交渉の達人」というイメージを高める。

 何のために大統領選挙に出馬したのか

もちろん、素朴に大統領になってみたい、それによって権力欲、虚栄心が満たされるという側面もあるだろう。しかし、最大の理由は、大統領選挙に出馬し、さらには米国大統領になることで「トランプ」というブランドの価値が最大化されることにあるように思える。

ドナルド・トランプのロシアでのビジネス・パートナーは次のように語っている。

エミンが言うには、大統領選出馬はトランプのビジネスにも好材料になるとのことだ。「たとえば大統領になれなくても、自分のブランドを前面に押し出せるおかげで、ブランドの経済価値は三倍に拡大するんじゃないか?」(p314)

 これまで「トランプ」のブランドは、アメリカ国内にとどまっていた。しかし、この選挙戦を通じて、世界的に好評、悪評を含め巨大な注目を集めることで、「トランプ」は世界的なブランドになったことは間違いない。ドナルド・トランプから見れば、このことが最大の成果ではないだろうか。

ドナルド・トランプは、選挙戦を通じてさまざまな放言をしてきた。それらの言葉をどこまで真に受けるべきか、疑心暗鬼になっている人が多いと思う。結局のところ、ドナルド・トランプは、主義、イデオロギーといったものにはあまり関心がないように見える。交渉に勝ち、ブランド・イメージを広めることに関心が集中している。それ以外、「このような世界を実現したい」という考えは内容に見える。

首席戦略官に任命したスティーブ・バノンは、明らかに人種差別主義者だと思う。一方、ドナルド・トランプは、強い人種差別的な傾向はあるが、スティーブ・バノンのように「主義者」といえるほど人種差別に執着している訳ではない。スティーブ・バノンは「主義者」だから一貫して人種差別的主張をするが、ドナルド・トランプは状況に応じて主張が変わる。

例えば、スティーブ・バノンの「テクノロジー企業の役員にアジアからの移民が多い」という発言に対し、ドナルド・トランプは「ひどい話だ。スティーブ、私たちは慎重に考えなければならない。有能な人はこの国に留まらせておくべきだ」と答えている。これは、この二人の違いを象徴していると思う。

だから、スティーブ・バノンは、遅かれ早かれドナルド・トランプに解任されるだろう。

www.huffingtonpost.jp

ドナルド・トランプがメキシコ移民の排斥を訴えている。このことは、彼が人種差別的な発言、行動をしてはならない、とは思っていないことを示している。しかし、「主義」としてメキシコ移民を排斥しようと考えているとは思えない。アメリカにとってメキシコ移民が有用な状況になったと判断すれば、発言はかんたんに覆るのではないか。

ドナルド・トランプは、アメリカの労働者にとってメキシコからの不法移民がマイナスになっていると考えている。メキシコ大統領との交渉によって、メキシコからの不法移民を減らすことを実現しょうとしている。「メキシコ政府の費用で国境に壁を作らせる」という発言は、その交渉を有利に導くための方策だろう。日本の核武装を容認する発言も、日本の防衛負担を増やす交渉のための方策と考えればいい。

個々の発言を文字通り実現しようとしている訳ではないから、状況に応じて簡単に前言は撤回するだろう。彼の狙いは、自ら各国と交渉することで、アメリカにとって有利な条件を勝ち取ったという成果、ないしは、勝ち取ったというイメージを得ることにある。

ドナルド・トランプは大統領として何をするのか

ドナルド・トランプは、「交渉の達人」というイメージと「トランプ」の「ブランド」価値を高めるように行動するだろう。

いま、大統領のスタッフ候補者は、マンハッタンの「トランプ・タワー」にやってきて、ドナルド・トランプと面接をする。金色のエレベーターの前のロビーにはテレビ・カメラが据え付けられて、誰がやってきたのか撮影している。「アプレンティス」が現実のものとなったような、大統領職はすでに事実上のリアリティ・ショーになっている。実際に大統領に就任した後、"Trump in White House"とか"The President"というタイトルのリアリティ・ショーのテレビ番組が作られてしまうかもしれない。

いずれにせよ、好評、悪評を含め、とにかく世界の注目を集める話題が提供され続けることは間違いない。

そして、国家のトップ同士による大きな取引を実現しようとするだろう。パリ協定やTPPから脱退すると宣言しているが、自分が手がけていない前任者の取引を認めたところで、ドナルド・トランプにとってなんの得にもならないからだ。あくまでも彼自身の手で大きな取引をまとめたという実績、ないしは、イメージがなければならない。

彼は「主義」はない。だから、大きな成果と認められる取引でありさえすればよい。だから、場合によっては、環境や自由貿易分野も交渉の対象になりうるだろう。いま、そういう取引ができる国内の政治基盤が安定している国を考えると、ロシア、中国、日本がターゲットになるのではないか。ヨーロッパは、トップダウンでは交渉が簡単に進む状況にない。

そして、交渉で解決できない領域については、こだわりがないこともあり、その分野の専門家に任せてあまり干渉しないのではないだろうか。

ドナルド・トランプ大統領の後に残されるもの

金ピカの「トランプ」ブランドは、アメリカでは時代遅れになりつつある。世界的なブランドになった「トランプ」は、金ピカのブランドが歓迎される地域、例えば、中国、ロシア、中東などに進出していくだろう。おそらく、中国に各都市にトランプ・タワーがあふれかえることになる。

四年後には、ドナルド・トランプのリアリティショーもいささか辟易されているだろう。そして、あらゆる意味で彼の対極にあり、しかし、個人としての「ブランド・イメージ」を持っているオプラ・ウィンフリー民主党の大統領候補の指名を得て、史上最高の投票率となる大統領選挙となる、と妄想している。

余談:モディ首相のビッグ・ハグに耐えられるか

ドナルド・トランプ潔癖症で握手を嫌うそうだ。たしかに、大統領選挙中も選挙民と握手しているシーンは見たことがない。

インドのモディ首相は、さまざまな指導者とハグをし、全力の握手をする。バラク・オバマとモディ首相のビッグ・ハグは有名だ。

ドナルド・トランプは、モディ首相のビッグ・ハグに耐えられるのだろうか?

www.washingtonpost.com

 

面倒くさい人、バラクに幸多かれ(そして自分も)

ミシェルとバラクと「ドゥ・ザ・ライト・シング

オバマ家にはなぜかずっと関心を持っている。

以前、長女のマリアが反抗期で、公的な行事でもふてくされた態度をとっていたときは、これからどうなるのかずっと気になっていた。その時期には、ミシェルとバラクの仲にも隙間風が吹いていたように見えていた。結局、マリアの大学入学のためにバラクが熱心に動いたこともあり、反抗期を抜けてすっかり落ち着いたようだ。

www.dailymail.co.uk

ミシェルとバラクは私よりちょっと年上だけど、結婚した年が私と同じで、なんとなく同世代感を抱いている。彼らがはじめてのデートで見た映画は、スパイク・リー監督の「ドゥ・ザ・ライト・シング」だという。私はこの映画を恵比寿ガーデンプレイスの映画館で見たことをよく覚えている。この映画ではじめてヒップ・ホップ・カルチャーに本格的に触れ、印象に残っている。自分の同世代の黒人のカップルがはじめてのデートで見る映画にふさわしいなと思う。

以下の記事のなかでミシェルは「彼はインディペンデントの映画を選んで趣味のいいところを見せようとしたんだけど、とってもいい映画だった、すばらしかった」と言っている。バラクの「見栄」がちょっとかわいい。

www.mtv.com

インターネットで検索するとミシェルとバラクの写真はたくさん見つかる。ホワイトハウスに入って以降は、専属カメラマンのピート·ソウザが撮った「すてき」すぎる写真が多い。たしかに「すてき」な写真だけれども、ちょっとかっこよすぎる。私が気に入っているのは、ミシェルとバラクが婚約時代に、バラクのルーツの地であるケニアを訪れたときにとったというこの写真だ。

バラクがこのときから「オバマ・ジーンズ」を履いているのがなかなか笑える。「すてき」すぎる写真と違って、バラクが笑っていないのも印象的だし、対象的にミシェルはかわいらしい。

https://timedotcom.files.wordpress.com/2016/08/barack-obama-michelle-obama-love-story-romance-photos-02.jpg?w=1200&quality=85&h=828

内向的な面倒くさい人

バラク・オバマについて書かれたものを読むと、彼はなかなか打ち解けない人だということがわかる。ジョージ・W・ブッシュは気安い人柄で、誰とでもすぐ打ち解けたようだ。それに比べるとバラクはなかなか「むずかしい人」のようである。小泉純一郎ジョージ・W・ブッシュは、仕事を超えた仲の良さがあったように見える。一方、安倍晋三とバラクは仕事以外の話をしていたようには見えない硬い雰囲気がある。この写真の表情を見ても、気難しさが伝わってくる。

しかし、バラクが心を開く相手がいない訳ではない。オバマ政権の財務長官としてリーマンショックの対応にあたったティモシー・F・ガイトナーは「ガイトナー回顧録」のなかで、バラクと打ち解けることができ、個人的に話し込んだと語っている。

 思うに、バラクはいわゆる「内向的」な人なのだと思う。演説は非常にうまい。しかし、個人的な人間関係づくりは苦手。しかし、限られた人とは打ち解けることができる。「ガイトナー回顧録」を読む限り、ガイトナー自身も内向的な人のように思う。似ているのでウマがあったのかもしれない。

ガイトナー回顧録 ―金融危機の真相

ガイトナー回顧録 ―金融危機の真相

 

 面倒くさい人、バラクに幸多かれ(そして自分も)

私自身、自分が内向的で面倒くさい人という自覚がある。たぶん、私の周囲には、こいつはとっつきづらいなぁ、と思っている人が多いんだと思う。バラクもどうもそう思われているようだ。しかし、ガイトナーのように打ち解けられる人もいるし、そういう人は貴重なだけにいきなり話し込んでしまったりもする。私自身にも似たようなことがある。

 そういう面倒くさい人と付き合っているミシェルは苦労をしたこともあるんだろうなと想像するし、バラクとマリアの関係が難しい時期があったのも当然だとも思う。しかし、そういう時期を乗り越えて、いまのオバマ家は平和な時期を迎えているように見える。

むずかしい人、バラクに幸多かれ(そして自分も)。

ヒラリーの悲しみ

夫が好きで好きでしょうがない

BSで各国のニュースを紹介する「キャッチ!世界のトップニュース」という番組で、国際政治学者の藤原帰一が月1回さまざまな国の映画を紹介するコーナーがある。映画の選択もいいし、国際情勢、社会情勢を絡めた解説もわかりやすく、おもしろくて、毎回楽しみにしている。

ニューズウィークのウェブサイトで、藤原先生がアメリカ政治を映画を絡めて紹介する記事が載っていた。そのなかで、ヒラリー・クリントンに関して書いている部分が非常に腑に落ちたので引用したい。

夫が好きで好きでしょうがない、この人を大統領にするために何でもする。しかし、この夫には女性がたくさんいる。事もあろうに子供まで生んだ人もいる。そんなふうに自分に傷ついて、これで終わりだろうと思うのだけど、もちろん終わりじゃない......。

…「この男のために私は人生を捧げてきた。そんなことをする甲斐のある人じゃない。女の子を追い掛けること以外、この人の頭の中には何もない」と。そうすると、私の人生は何だったんだろう、となる。断片的な証拠があるだけですが、1人娘のチェルシーはお父さんに苦しめられたヒラリーに向かって「お母さんが政治家になったらいいじゃない」と言ったといいます。ヒラリーが上院議員に立候補する前か後か分かりませんが。チェルシーにしたがって、彼女は夫を応援する人生をやめて自分が政治家になる人生を選ぶことになります。

www.newsweekjapan.jp

大統領を目指す茨の道

最初は、ビルからプロポーズをして、一回はヒラリーが断っているというが、やっぱりヒラリーの方がビルに惚れているんだろうなぁと思う。まあ、ヒラリーとビルのほんとうの関係など私にわかるはずもないけれど。

大統領になったビル・クリントンという人格的に破綻しているところもある天才的な政治家と結婚したことは、ヒラリーのキャリアのプラスになったところもある。彼との結婚がなければ大統領選挙を目指す位置までたどり着くことは難しかったかもしれない。しかし、大統領選挙を戦う上では、ビルと結婚したことが大きなマイナスにも働いている。

ビル・クリントンが大統領任期を終えた後、ヒラリーは上院議員として政治家としてのキャリアを積み、大統領選挙を目指す。しかし、最初の挑戦では民主党予備選挙バラク・オバマに敗れてしまう。今にして思えば、このときがヒラリーが大統領になる最大のチャンスだったけれど、バラク・オバマというあまりにも強力な競争相手と同じ選挙を戦うことになったのは不運としか言えない。

 最近のアメリカの大統領選挙を振り返ると、ワシントンで長いキャリアはマイナスになることがよくわかる。ワシントンでのキャリアが長い候補の方が勝ったのは、1988年の父親の方のジョージ・ブッシュとマイケル・デュカキスの選挙までさかのぼる。そして、ジョージ・ブッシュは1992年の選挙では、ワシントンのアウトサイダーだったビル・クリントンに敗れてしまう。

ヒラリーは大統領を目指して、上院議員、国務長官のキャリアを積み上げるが、結局、それが大統領になるためにはプラスの作用を及ぼしていない。1992年はワシントンのアウトサイダーだったクリントン夫妻は、2016年にはすっかりインサイダー中のインサイダーになってしまう。そして、国務長官時代のメール問題が今回の大統領選挙の最後までつきまとった。

ヒラリーの悲しみ

ビルの影を払い除け自己実現するには、やはり自分の力で大統領になるしかなかったのだろう。

オバマに敗れたときは、それでもまだ諦めがついたのだと思う。彼は高邁な理想を演説で訴え、アメリカ初の黒人大統領になったのだから。また、彼女自身もまだ大統領になるチャンスが残されていた。

しかし、このタイミングに比べ、8年後はさまざまな不利な条件が増える。8年後は大統領候補者としては高齢になってしまう。2期以上任期をまっとう大統領の後に、同じ政党の候補者が当選することは少なく、やはり1992年ジョージ・ブッシュまでさかのぼる。そして、8年間ワシントンでキャリアを積むことで、よりインサイダーのイメージが濃くなってしまう。

オバマは、マイノリティからの熱狂的な支持、民主党の伝統的な基盤に加え、今回の選挙戦ではバーニー・サンダースを支持した層からも支持されていた。それに比べると、ヒラリーの支持者は民主党の伝統的な基盤(労働組合は弱体化していた)とフェミニストが中心で、オバマほどの広がりがなかった。8年前大統領候補者になれたら、もっと広範な支持を受けられただろう。

今回は敗れた相手があのドナルド・トランプだった。そして、もう次のチャンスはない。ヒラリーの悲しみの深さはいかほどだろうかと、同情する。ヒラリーは、茨の道を歩んできた人だと思う。

トランプの内心は?

ヒラリーは本心を隠しているというイメージがあったようだけれども、私から見ると何を考えているのかがわかりやすいと思う。

ドナルド・トランプは、あけっぴろげのようで、実のところ何を考えているのかよくわからない。そもそも、なぜ大統領選挙に出たのか、大統領になって何を実現したいのか、わかるようでよくわからない。

トランプに関する報道の多くは、彼の「演技」を誇張して伝えるものが多く、彼の内心、肉声があまり聞こえてこないように思う。彼の内心に触れるレポートを読んでみたいと思っている。

クラフトビールと一期一会

アメリカのビールはカヌーに似ている

以前のエントリーで紹介したPodcast "How I Built This"で、今度はクラフトビール企業の草分け、サミュエル・アダムスのオーナーのインタビューが放送されており、なかなか興味深かった。

今ではアメリカのクラフトビール文化はしっかり根付いているけれど、昔はアメリカのビールがおいしいという人はいなかった。このPodcastの中で、モンティ・パイソンジョークが紹介されていた。

「アメリカのビールはカヌーに似ている。だって、水に近いもの。」

yagian.hatenablog.com

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 クラフトビールロゼワインとの一期一会

この夏休みにポートランド旅行をして、地元のクラフトビールをたっぷり飲んだ。とてもおいしかった。旅行前、アメリカのクラフトビールを求めて、東京でクラフトビールを出すお店を巡ったり、酒屋でいろいろ探したりしていた。しかし、逆に、ポートランドで満足したせいか、クラフトビール熱は少々覚めた感じもする。

以前も似たようなことがあった。プロバンス地方に旅行した時、夕方、野外に置かれたテーブルで飲むロゼワインがとてもおいしかった。日本ではロゼワインはほとんど飲んでいなかったけれど、感激するぐらいのおいしさだった。けれども、帰国してから同じロゼワインを飲んでも、あのプロバンスでの一杯のようなおいしさはない。

お酒のおいしさには、いろいろな構成要素があるのだろう。ビールやワインのようなお酒は、品質が安定しないから、輸送や保存のコンディションで味が変わる。そして、気候と料理、旅での高揚感なども大きな影響がある。

結局、アメリカのクラフトビール、南仏のロゼワインがおいしいということではなく、あのポートランドのマイクロブリュワリーが直営しているお店で夏の夕方に飲んだあの一杯のビールがおいしかったのであり、あのプロバンスの空気のなかで飲んだあの一杯のロゼワインがおいしかったのであり、それを東京で再現することはできない、とういことだ。 

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世界のビールのなかに置いてみるとバドワイザーも日本のビールもけっこういける

もっぱら日本のビールを飲んでいた時は、ビールって単調だなと思っていた。しかし、アメリカのクラフトビールをはじめとして、世界のビールをいろいろ飲んでみると、日本のビールは、それはそれとして、個性があるんだなとわかってきた。日本のビールだけを飲んでいるのは飽きるけれど、たまに世界のビールの一種として、例えば、シンハビールと横並びで、日本のビールを飲むとけっこういけると思う。

同じように、クラフトビールとならべてバドワイザーを飲むと、これはこれで個性があって、意外といけると思う。昼間、ハンバーガーを食べながら飲むんだったら、バドワイザーも悪くないと思う。

前にも書いたけれど、ビールは品質が安定していない。近所に、ふつうの一番搾りの生ビールがやけにおいしいお店がある。ビアサーバーの管理がよくて、注ぎ方も上手なのだろうか。そういうところで寿司と一番搾りの生ビールを飲むのもおいしい。

サルトルによるノーベル文学賞辞退声明の和訳

 過去にノーベル賞を辞退した人たち

今回のノーベル文学賞ボブ・ディランへの授与に関するニュースを見て、そういえば過去にノーベル賞を辞退した人はいるのだろうかと思い、検索してみたところ、Wikipediaにジャン=ポール・サルトル、レ・ドゥク・ト、ゲルハルト・ドーマクの三名が辞退したとの記述があった。

これまでにノーベル賞の受賞を辞退したのは、ジャン=ポール・サルトル(1964年文学賞辞退)、レ・ドゥク・ト(1973年平和賞辞退)、ゲルハルト・ドーマク(1939年生理学・医学賞辞退)の3人であるが、ドーマクはナチスの圧力で強制的に辞退させられたものであり、戦後の1947年に賞を受け取っているため、最終的に受け取らなかったのは前者2名である。

ノーベル賞 - Wikipedia

 別のソースでは、ボリス・パステルナークも受賞を拒否した(を強いられた)という。

ドクトル・ジバゴ』を記したパステルナークは、サルトルとは事情が異なり、当時のソ連の圧力により、受賞を拒否せざるを得ない状況に。後に遺族が賞を受け取りました。

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サルトルノーベル賞を辞退した理由

パステルナークは自発的な辞退、拒否ではないから、ディランとは比較できないだろう。そこで、サルトルの辞退の理由についてさらに検索してみたところ、ノーベル賞を辞退したときにサルトルが出した声明が見つかった。 

この声明によると、ノーベル賞の辞退には、個人的な理由と客観的な理由の二つがあるという。

彼の作家としての信条として、ノーベル賞に限らず公的な賞は辞退することにしているという(レジオン・ドヌール勲章も辞退しているとのこと)。作家は、あくまでも一個人として書いた文章のみを手段として行動すべきであり、賞を受賞することは読者に無用なプレッシャーを与え、特定の組織に関与することになってしまうとの考えからのようだ。

また、客観的な理由として、自分は社会主義、東側陣営を支持しているが、ノーベル賞を「ブルジョア的」とする見方があり、ノーベル賞もそれに影響されているからだという。例えば、ノーベル文学賞は、西側の作家か東側で体制に抵抗している作家のみが受賞していることを指摘している。

あと、最後に賞金について率直なコメントが書かれている。まとまった金額の賞金を貰えれば、価値があると考えている運動の支援に使える、しかし、受賞を拒否すればその支援ができなくなる、というジレンマに苦しんだという。しかし、結局のところ、賞金のために自分の信条を曲げてまで受賞することはないと考えたという。

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内示をせずにノーベル賞を授与することの危険性

ディランがノーベル文学賞に選ばれたというニュースを聞いた時、まっさきにノーベル賞って受賞者に内示をして受諾の意志を確認するのかな、と疑問に思った。このサルトルの声明を読むと、受諾の意思確認はしていない、ということがわかる。

サルトルは、ル・モンド紙で自分がノーベル文学賞の有力候補になっているという記事を読み、選考された場合辞退する旨を書いた手紙を送ったが、行き違いになってしまったという。

サルトルボブ・ディランは、個人的な信条で辞退したり無視したりしているので、個人的な問題といえば個人的な問題である。しかし、今後、サルマン・ラシュディノーベル文学賞に選ばれた場合、アカデミーだけでなく、ラシュディ自身にも危害が及ぶ可能性が高まるから、受諾の意志の確認なく授与することに問題があるように思う。

 以下に、サルトルの声明を和訳しようと思う。英訳からの重訳でもあり、また私の英語の能力の制約から不正確なところや読みにくいところもあるけれど、なかなか興味深いことが書かれている。これを読むと、ディランもなんらかなの形、声明、文章でなければ歌でもよいから、ノーベル賞に対する反応を示してほしいなと思った。

ジャン=ポール・サルトル(リチャード・ハワード訳)1967/12/17発行(和訳)

ジャン=ポール・サルトルは、10月22日にスウェーデンの記者に対して発表した声明のなかで、ノーベル文学賞の辞退について説明した。その声明は、サルトルが認めたフランス語訳でル・モンド紙に掲載された。以下の英訳はリチャード・ハワードによるものである。

ノーベル賞が授与され、私が辞退した出来事が、スキャンダルのようなものになってしまったことを非常に残念に思っています。進行していたことが私に十分伝えられていなかったことが原因でした。スェーデン・アカデミーの選考が私に傾きつつあるがまだ決定には至っていない、とのスェーデン特派員のコラムが10月15日付けフィガロ紙文芸欄に掲載されたのを目にして、アカデミー宛に手紙を書き、翌日発送しました。これで問題は解決し、これ以上の議論は起きないと思っていました。

その時は、ノーベル賞が受賞者の意向を確認せずに賞を授与するとは知らず、今回の出来事を防ぐ余裕があるに違いないと思っていました。しかし、今は、スェーデン・アカデミーの決定を覆せないということは、理解しています。

受賞を辞退する理由は、アカデミー宛の手紙のなかで説明したとおり、スェーデン・アカデミーにもノーベル賞そのものにも関係ありません。手紙の中に、個人的な理由と客観的な理由の二つについて書きました。

個人的な理由は以下の通りです。私の辞退は今回限りのジェスチャーではなく、公的な表彰は常に辞退しています。戦争が終わった後の1945年にレジオン・ドヌール勲章を授与されたとき、私は政府を支持していましたが、辞退しました。同様に、数人の友人に勧められましたが、コレージュ・ド・フランスに入ろうとしたことはありません。

この方針は、私の著述業に関する考えに基づいています。ある政治的、社会的ないし文学的な立場をとる作家は、自分自身の文章のみを手段として行動すべきです。作家が受賞した表彰は、私が望ましくないと考えるプレッシャーを読者に与えます。私が自分について「ジャン=ポール・サルトル」と署名することと、「ノーベル賞受賞者ジャン=ポール・サルトル」と署名することは、同じことではありません。

表彰を受け入れた作家は、同時に、表彰した組織、団体と関係することになります。私のベネズエラ革命党への共感は個人的なものですが、もしノーベル賞受賞者としてベネズエラ人の抵抗を擁護すれば、そのことを組織としてのノーベル賞全体に関係させることになります。

それゆえ作家は自分自身を組織に転化させることを拒否しなければなりません。今回のように最も名誉な状況においてでもです。

もちろん、この姿勢は完全に私個人のものです。これまでの受賞者への批判をまったく意味していません。光栄にも知り合うことができた受賞者の方々に対しては、深い敬意、敬愛を持っています。

客観的な理由は以下のとおりです。今日、文化的な戦線で起こりうる唯一の戦いは、東西の二つの文化の平和的な共存を求めた戦いです。私は、お互いを受け入れなければならないと言いたいのではありません。二つの文化の対立は衝突という形態を取らざるを得ないことはわかっています。しかし、この対立は、組織の干渉なく、純粋に個人の間、文化の間で起きなければなりません。

私自身、二つの文化の矛盾に深く影響されています。私はこの矛盾から成り立っているといってもいいでしょう。私は社会主義と東側陣営と呼ばれているものに共感していることを否定できません。しかし、私はブルジョアの家庭、文化に生まれ、育ちました。このことで、私は二つの文化を近づけようとするすべての人々と協力できるようになりました。それでもなお、当然ながら、私の望みは「勝つべき人が勝つ」ことです。勝つべき人とは、社会主義です。

このことが文化的な権威からの表彰を受けられない理由です。なかんずく、東側ではなく、西側の権威からは、たとえその存在に共感していても。また、社会主義陣営に共感しているといっても、誰かが私を表彰したいと思ったとしても、例えば、レーニン勲章は受け取れません。

ノーベル賞それ自体が西側陣営の文学賞ではないことはわかっていますが、ノーベル賞は西側陣営で成り立っていますし、さまざまな出来事はスウェーデン・アカデミーのメンバーの領域外で起きています。それゆえ、現在の状況下では、ノーベル賞は、客観的に見て西側か東側の反逆者の作家にのみ授与されています。例えば、ネルーダには授与されていません。彼は南アメリカの最も優れた詩人のひとりです。明らかにノーベル賞にふさわしいにもかかわらず、ルイス・アラゴンに授与されないのはなぜでしょうか。ショーロホフではなく、パステルナークにノーベル賞が授与され、ノーベル賞を受賞した作品が国内で出版を禁じられたもののみということを残念に思います。他の方面についても同じような姿勢でバランスが決められています。アルジェリアの戦争の間に「121宣言」にサインした時であれば、私はノーベル賞を受けたでしょう。なぜなら、私だけではなく、私たちの自由を求めた戦いにも栄誉が与えられたからです。しかし、そのようにはなりませんでした。戦いが終わりはじめてノーベル賞は私に授与されました。

スェーデン・アカデミーの動機について語るならば、表彰は自由から成り立っています。その言葉は、さまざまな解釈ができます。西側陣営においては、「自由」とは一般的な自由のみが意味されます。私は、個人的には「自由」によって、一足の靴と満腹できる食事以上の権利からなる確固たる自由のことを意味しています。ノーベル賞を受けるよりも辞退する方が安全なように思えます。もしノーベル賞を受ければ、私自身を「客観的な名誉回復」と呼ぶであろうものに捧げることになるでしょう。フィガロ紙の文芸欄の記事には、「物議をかもした政治的な過去は問題とならなかった」と書かれていました。この記事がアカデミーの見解ではないことはわかっていますが、私が賞を受けることが、右翼陣営からどのように解釈されるかは明らかです。私が同志たちに過去の過ちを認める用意ができているとしても、この「物議をかもした政治的な過去」は今でも過去のものにはなっていません。

ノーベル賞が「ブルジョア」の賞だとは言いませんが、私がよく知っている特定の人々から避けようもなくブルジョア的解釈がなされるでしょう。

最後に、賞金の問題を話しましょう:アカデミーが受賞者に、栄誉とともにまとまった賞金を授与するということは非常な重荷になり、この問題は私を苦しめます。賞と賞金の両方を受け取ることで、私が重要だと思う組織や運動を支援することができます。ロンドンのアパルトヘイト協会を思い浮かべています。さもなければ、寛大な方針の賞を辞退することで、そのような運動が切実に必要とする支援が奪われます。しかし、これは誤った問題の立て方だと確信しています。西側にも東側にも取り込まれないことを望んでいるために、私は25万クラウンを諦めます。しかし、25万クラウンのために自分自身と全ての同志と共有している原則を捨てることはできません。

賞を授与され、かつ辞退せざるを得ないことは、私にとって非常な苦痛です。

スェーデン市民のみなさんへの共感のメッセージでこの宣言を締めくくりたいと思います。