翻訳の楽しみ

村上春樹翻訳ほとんど全仕事」

村上春樹の本だから予約している人が多いんだろうなぁと思ったけれど、 豊島区図書館のサイトを見たら予約待ちの人がいなかったので、すぐに借りて読むことができた。

村上春樹が翻訳すればふつうの訳者よりはずっと売れるのだろうけれど、それでも村上春樹ファンのなかでは翻訳まで読んでいる人は少ないのかもしれない。

村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事

村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事

 

村上春樹はいろいろな場で翻訳の楽しさについて語っている。この本のなかでも次のように書いている。

じゃあ、小説を書いていないときには何をしているかということになるわけだが、僕の場合、だいたいは翻訳をしているみたいだ。エッセイ連載みたいなこともたまにはやるけれど、週に一度の連載を一年くらい続けると、手持ちのネタはほとんど尽きてしまう。だからそれほど熱心にはやらない。それよりは翻訳をやっている方がよほど楽しい。ネタ―翻訳したいテキスト―はそれこそ山のようにあるし、自分のつたない世界観や考え方をいちいちパッケージして商品化するような必要もないし(とても面倒だ)、それにだいいち文章の勉強になる。人に会う必要もなく、一人で自分のペースで仕事を片付けていくことができる。おまけにこつこつとやっていれば、いくばくかのお金になる。こんな良いことはない。

村上春樹翻訳ほとんど全仕事」のなかで、彼の訳業のすべてが紹介されている。たしかにこつこつと仕事をしてきたことがよくわかる。いつものことながら、彼の継続力には圧倒されるし、尊敬している。

村上春樹の翻訳で私が気に入っているのは、レイモンド・カーヴァーレイモンド・チャンドラーの作品である。

カーヴァーは村上春樹が翻訳しなければ彼の小説を読む機会はなかったと思う。彼を紹介してくれたことに大きな意義がある。

村上春樹訳のレイモンド・チャンドラーを読んでいると、まるで村上春樹自身が書いたハードボイルド小説のようだ。村上春樹は、チャンドラーから影響を受けたことをよく語っているが、そのことが彼の翻訳を読んでいるとじつによくわかる。

翻訳の楽しさ

自分の場合、まったくの趣味として翻訳をすることがある。

長編小説をまるごと翻訳したことはないが、長編小説のなかの気に入った一節、短編小説、ちょっとした記事、インタビューなどだ。英文和訳もあるし、和文英訳もある。たまに古文の現代語訳をすることもある。中国語の翻訳はまだ語学力がついていかないので無理だけども、そのうちできるようになると楽しそうだ。

私の場合、もちろん、翻訳しても「いくばくかのお金」になることはないけれど、「自分のつたない世界観や考え方をパッケージ化」したブログよりは、翻訳をした方が誰かの役に立つ可能性はずっと高いように思う。

この本のなかの村上春樹柴田元幸の対談で、サリンジャーの翻訳の話がでてくる。野崎孝サリンジャーの訳はなかなか癖があって、好き嫌いがわかれる。私のつれあいが「ナイン・ストーリーズ」が好きなので、恐れ多くも「バナナフィッシュにうってつけの日」を翻訳してプレゼントしたことがある。 

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

 

私の翻訳も何かの役には立っている、と思いたい。

国語学習として

この本のなかで村上春樹も書いているが、翻訳は究極の熟読だから、その文章のことを深く理解したいと思えば翻訳をしてみるのはいい方法である。

英語であれ、日本語であれ、読んだだけでは理解したような気になって読み飛ばしていることが多いけれど、翻訳しようと思えば一語一語しっかりと読み込み、構文を確認しなければならない。

辞書を持たずに推測力を働かせながら速読(skimming)することも重要だけれど、たまには翻訳をするぐらいのスピードで熟読することも大切なんだと思う。

 

 

ペンパル

語学学習とブログ

いま、中国語の作文の練習を目的として、中国語と英語と日本語の三か国語のブログを書いている。

ここ(金盾 - Wikipedia)を見る限り「はてな」は遮断されていないようだけれど、中国人読者を獲得したいので中国のブログサービス(新浪博客)で同じ内容を転載している。

yagianchinese.hatenadiary.jp

blog.sina.com.cn

以前、英語のブログをかなり真剣に書いていた時期があったのだが、語学力の向上には効果が大きかったと実感している。

私の場合、語学学習は基本的に独学なので、インプット量を増やすのはさほど難しくないけれど、それに見合ったアウトプット量を確保するのは難しい。だから、定期的にブログを書けば英語のアウトプットは増えるし、また、ネタ探しのために英語のインプットも同時に増える。一石二鳥である。

yagian.blogspot.jp

ペンパルができた

英語のブログは、それなりにアクセスがあった(いまでも検索経由で一定のアクセスがある)。しかし、中国語は英語ほど込み入ったことを書けないから、なかなか自分としておもしろいと思える文章を書くまでに至らない。また、中国には、ごくふつうの素人がブログを書くという風習が定着していないこともあるようで、たまにコメントがつくことがあるぐらいで、なかなかアクセスが増えなかった。

まあ、自分の中国語の作文練習用のブログだから自分が書けばよく、誰も読まなくてもそれはそれでよい。だけど、読者がいて、反応があったほうが自己顕示欲が満たされるし、モティベーションも高まるのは間違いない。

つい先週、中国語のメールが届いた。上海に住む若いプログラマで、英語と日本語を勉強しているという。二か国語を同時に勉強している人を探していて、私のブログにたどり着いたようだ。ペンパルになりたいという。

ブログに読者がいた、ということが純粋にうれしいし、ごくふつうの中国の若者の生活や考えには興味があるし、ペンパルというのも語学学習のいいきっかけにもなる。喜んでペンパル(中国語では「笔友」と呼ぶらしい)になりましょうと返事を出した。

ブログでは、あまり読者を意識せず、書きたいことを書いてきたけれど、それでも長年続けていると、ネット上での思わぬ出会いがあったりする。

30年前のペンパ

学生時代、かれこれ30年ほど前、イスラエルペンパルと英語で手紙をやりとりしていたことがある。当時は文字通りペンで書いた紙の手紙をエアメールで郵送していた。

当時イスラエルまでどのくらいの時間がかかったかよく覚えていないけれど、往復で一週間以上はかかっていたと思う。まさに石器時代だった。

yagian.blogspot.jp

私はなるべくきれいな便箋を使うようにしていたが、先方からはノートをやぶったような紙の手紙だった。イスラエルにはきれいな便箋を使うという習慣がなかったのか、そういう便箋があまり売っていなかったのか、ペンパルにそういう趣味がなかったのか、まだよくわからない。

WeChatをする

石器時代に比べると現代は話が速い。さっそくメールをやりとりして、WeChat(微信)の友だち登録をした。

中国に興味を持ってから、中国最大のメッセージサービスWeChatをiPhoneにインストールはしたけれど、使う相手がいないまま放置していた。やっと使うことができるようになった。

メールを一本書くには、ブログのエントリーを仕上げるぐらいの労力がかかる。チャットはメールに比べるとはるかに敷居が低い。正確に書かなくちゃという意識からかなり解放され(もちろん、完全に解放される訳ではないし、解放されるのがよいのかどうかよくわからないが)、かなり気軽に書くことができる。中国語でなんというんだっけ、と迷えば、英語をまぜればよい。

国語学習が加速するきっかけになりそうだ。

そういえば、そのペンパルの人は、最近アリババが大規模なセールをすることで有名になった「独身の日」(双11)には、特に欲しいものがなかったから買物はしなかったという。ニュースを見ていると、若い人は皆が皆買物をしているような感じがするけれど、まあ、特に欲しいものがないひとは買物をしないのだろうな。

感謝祭と家庭内DJ

感謝祭と家庭内DJ

感謝祭の夜、家で丸鶏のローストを突きながら、ワインを飲んだ。

家でお酒を飲む夜は、家庭内DJで盛り上がる。Spotifyで選曲してBluetoothスピーカーを鳴らしたり、Apple TVでYoutubeを流したりする。

最初はその夜に合せた選曲を考えたりするけれど、酔いが回るとけっきょく定番の選曲になっていく。

Beck "Where It's At"

先日ライブに行ってきたBeckから一曲。これはいまから20年前の映像だから、この前ライブで見たBeckと比べてずいぶん若い。

Youtube上でBeckのライブ動画は比較的少ない。でも、実際にこんなライブに参加できたら、もう、いっぱつでBeckにやられてしまうだろう。もっとライブ動画をアップしてほしい。

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James Brwon "Sunny"/ "Dance Lesson"

 次はJames Brown

James BrownYoutube上にたくさん動画があるけれど、このパリでのライブ映像がいちばんかっこいいと思う。アメリカでのライブよりはずいぶんおしゃれでよそ行き感があるけれど、気合いは入っている。この"Sunny"はいろんな人がカバーしているけれど、James Brownバージョンの後半は、もう、なんて言ったらよいか。

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次はライブ映像ではなく、James Brownがダンスレッスンをしてくれる動画。

Bob Dylanが記者会見で、詩人と呼ばれるのを韜晦して" Oh, I think of myself more as a song and dance man."と答えているが、でも、James Brownこそが"a song and dance manではないか。

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Stevie Wonder "Higher Ground"

この人、けっして過小評価されているわけじゃないけど、でも、ほんとはもっとすげぇんだよ、と言いたくなる人がいる。Stevie Wonderはそのうちのひとり。

現在は、でっぷりとして幸せそうで、朗々と歌う好々爺という風情だけど、若い頃はキレキレでファンクがかっこよかったんだよぉ、と叫びたくなる。

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Stevie Ray Vaughan Sound Check

スティーヴィー・レイ・ヴォーンは、もちろん、かっこいいライブ動画は山のようにある。けれど、いちばん印象的なのは、リハーサルでサウンドチェックしている動画。

何気なくチャラチャラっと弾くフレーズが、もう、かっこいい。このヒト、一日中ギターを触っているんだろうなぁという感じがする。

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宇宙人“那你呢?”

今学期のNHK「テレビで中国語」の主題歌。台湾のインディー出身のバンドらしい。このビデオでは、台湾の若者の視点から現代の東京が切り取られていて興味深い。

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 チャン・ギハと顔たち「安いコーヒー」

しばらく前、在日ファンクとチャン・ギハと顔たちの対バンのライブを見てきた。それまでチャン・ギハを聴いたことがなかったけれど、けっこう気に入った。この「安いコーヒー」は歌詞もけっこう好き。この動画の字幕の日本語はめちゃくちゃだけど。

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Tin Pan Alley「北京ダック」

細野晴臣の中華街ライブ。この時期の細野さんの音楽はほんとうに気持ちがいい音で大好き。

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Ben Folds "Rockin' the Suburbs"

結局、演奏がうまくて、少人数のシンプルな設定で、さっとかっこいい演奏ができるミュージシャンが好きなんだと思う。おおげさな音楽は、かっこいいとは思えない。

Ben Foldsはまさにシンプルでかっこいい演奏ができるミュージシャン。このMyspaceのライブは、観客との距離感の近さがいいなぁとうらやましく思う。

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Talking Heads "Psycho Killer"

 ちょっと意外な感じもするけれど、Talking Headsはスタジオ録音のアルバムよりライブの方がずっといいように思う。特に、ジョナサン・デミが監督した”Stop Making Sense”は最高で、この冒頭の"Psycho Killer"を見ていっぱつでTalking Headsファンになってしまった。 

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こっちはソロでのライブ。

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そうして夜が更けていく。

Titus Kaphar「アートは歴史を「修正」できるか」

TED Radio Hourを聴く

このブログで、アメリカのPodcastの話をよく取り上げていると思う。

英語のリスニングの練習という意味もあるが、それ以前に内容が興味深い番組が多くあり、楽しんで聴いている。

そのなかに"TED Radio Hour"という番組がある。この番組、毎回テーマを設定して、そのテーマに関連するTEDの講演のさわりと、講演者のインタビューで構成されている。もし、興味がわけば、TEDの講演を聴いてみてください、という流れになる。

今回は"How Art Changes Us"というテーマである。いちばん最初に紹介されたTitus Kapharというアフリカ系アメリカ人の画家の話に惹きつけられ、TEDの講演を聴いてみた。
www.npr.org

 Titus Kaphar「アートは歴史を「修正」できるか」

www.ted.com

Titus Kapharは、アメリカの伝統的な絵画に描かれたアフリカ系アメリカ人に着目した作品をつくっている。

文章で説明をするのが難しいので実例を見てもらいたい。白人の肖像画の背景にアフリカ系の使用人が描かれている。元の絵ではあくまでも背景の一部の扱いである。しかし、Titus Kapharはその彼らも歴史を背負った人間である、ということ表現するために、彼らに視線が向くように「修正」を施した絵を描く。

TEDの講演のなかでは、アフリカ系の人が背景に溶け込むように描かれている絵の複製を作り、彼以外の白人を白く塗りつぶすというパフォーマンスをしている。

http://magazine.art21.org/wp-content/uploads/2015/12/9519f67fa7d0b2deef18562a5d60084e.jpg

合衆国憲法「修正条項」と政治的に「不適切」な銅像への対応

この講演のなかでTitus Kapharは、過去の歴史は消し去ることはできない、と言っている。合衆国憲法の修正条項(amendment)は、修正前の条項と併置されている。そのことで、その当時のアメリカ合衆国と現在の修正されたアメリカ合衆国が対比して示されているのだ、という。

彼の主張は納得できる。

最近、アメリカでは、黒人差別をしていた人の像の扱いに関して議論が高まっている。Titus Kapharは、そのような像を引き倒すべきではないと語っている。そのような像の隣に新しい像を建てて、新しい意味を与えるべきだと主張する。合衆国憲法の修正前の条項と修正条項が併置されているように。

ポリティカル・コレクトネスの皮相さとTitus Kapharの「修正」の深み

 以前、クリント・イーストウッドポリティカル・コレクトネスに疑問を表明していることについて、ブログを書いたことがある。私自身も、ポリティカル・コレクトネスについてずっと違和感を感じている。

yagian.hatenablog.com

ポリティカル・コレクトネスの主張は、皮相的にも関わらず、独善的で不寛容だという印象を拭えない。これに比べるとTitus Kapharが言う「修正(amend)」ははるかに深みがあり、感銘を受けた。

バーミヤンの大仏の再建について

似たようなことをバーミヤンの破壊された大仏の再建問題について感じている。

仏教では永遠なものはない、と教えている。当然、形のある仏像は永遠のものではない。破壊された大仏の後の空間は、まさに仏教のその教えを表現していると思う。その真実から目を逸し、その空間に再度大仏を建立することが、仏教の教えに則ったことなのか、強く疑問を感じる。

かつてそこには大仏があり、そして、それが破壊されたという歴史がある。そのことを表現する空間、それこそがいまありうべきバーミヤンの大仏の姿なのではないだろうか。タリバンは、はからずも仏教の教えを実現してしまったのだ。

自分の考えが正しい根拠はどこにあるのか?

「かくて行動経済学は生まれり」と「ブラック・スワン

マイケル・ルイス「かくて行動経済学はうまれり」を読み終わった。行動経済学者のリチャード・セイラー(この本のなかにも登場する)がノーベル賞を受賞したからではなく、図書館で予約を入れておいたのが、たまたまこのタイミングで順番がまわってきたからである。

非常におもしろく、興味深い本だった。行動経済学の契機となる研究を行ったイスラエル人の心理学者、ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーを主人公としたノンフィクションだ。彼ら二人のライフヒストリー、キャラクター、二人の関係とその変遷もおもしろいし、彼らの研究自体も興味深い。

経済学では、人間は合理的な行動とる、という仮説を基礎としている。もちろん、個々の人間の個々の行動がすべて合理的という訳ではない。しかし、平均すれば合理的な行動に落ち着く、ということである。しかし、カーネマンとトヴェルスキーは、人間はある一定の傾向を持って合理的な判断、意思決定、行動から離れることを示した。この研究によって、「人間は合理的な行動をとらない」という前提に基づく経済学、行動経済学が生まれた。

この本を読みながら、ナシール・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン」を思い出していた。「ブラック・スワン」では、ごくまれにしか起きないが、発生すると破滅的な影響を与える事象、例えばリーマン・ショックのような、を人間は過小評価しがちで、合理的に対処できないことを論じている。

カーネマンは幼少期にナチス占領下のフランスからイスラエルに移住してきた経験を持つ。カーネマンとトヴェルスキーのふたりともイスラエルの存亡をかけた戦争での軍役の経験を持っている。一方、タレブが「ブラック・スワン」のアイデアを得たのは、それまで長年平和だったレバノンが一夜にして内戦の巷と化してしまった経験にもとづいている。

 この両者には、過酷な経験に立脚したリアリスティックな人間の知性への懐疑、が共通しているように思う。

かくて行動経済学は生まれり

かくて行動経済学は生まれり

 
ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質

ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質

 
ブラック・スワン[下]―不確実性とリスクの本質
 

自分の考えが正しい根拠はどこにあるのか

自分も懐疑主義的だ。

さまざまな事柄に対して、自分なりの考えは明確に持っている方だと思う。もちろん、それぞれの自分の考えに対して自分なりの根拠を持っている。しかし、一方で、同じ事柄に対して自分と異なる考えを持っている人がいることは理解しているし、多くの場合、自分の考えが少数派だったりする。

同じ事柄を見て、自分と違う考えを持つ他人がいる、という事象は非常に興味深い。当然ながら、自分の観点から見れば、他人の考えよりは自分の考えの正しいような印象を持つ。しかし、客観的に見て、自分の考えが他人の考えより正しいという確実な根拠はないように思える。

あたかも自分の考えが正しい、ということを信じているかのように見える人がいる。しかも数多く。そのような人は、自分の考えが他人の考えと比べてより正しいという具体的な根拠を持っているのだろうか?それとも単に自分の考えが正しいと信じているだけなのだろうか。

私の文章には「思う」が頻出する。文体の美学としては、断定した方が美しいのかもしれない。しかし、私は自分の考えに懐疑的なので、あくまでも自分の考えに過ぎないものを断定するのは不誠実なように感じてしまう。ここまでは確実な事実であり、ここからは不確実な自分の考えだということを明示しておきたいのである。

他人へのアドバイスは難しい

 自分の考えの普遍的な正しさについては懐疑的だが、自分の行動に対する決断にはあまり迷いがない。それは、自分の決断の根拠には自分の考えで十分であり、それには普遍的な正しさが必要とは特に感じない。

しかし、他人の決断に影響を与えうる場合、自分の不確かな考えを伝えること、つまり、他人にアドバイスすることは難しいと思っている。自分の決断においては、自分の考えの不確かさに、自分が責任を取ることはできる。しかし、他人の決断において、自分の考えの不確かさに責任は負えないと思うからだ。

だから、あくまでも自分があなたの立場だったらこのように考える、ということは伝えるけれど、こうすべきだ、とは言えないし、言うことが不誠実に感じる。だから、いとも簡単にアドバイスとして自分の考えをとうとうと述べ、場合によっては押し付ける人を見ると、なんていうか、人間の多様性について思いを馳せてしまう。

「構成的主知主義」批判とハイエク

 このような懐疑主義を持っていると、フリードリヒ・ハイエクの思想は実にしっくりくる。

彼は、人間の知性によって理想の社会を設計できるというような考え方「構成的主知主義」を厳しく批判する。例えば、フランス革命ロシア革命のように、自分の考える理想の社会、国を実現するために手段を選ばないような行為の基礎となっている考え方である。

人間や社会は個人の知性によって解明するには複雑過ぎると思う。自分なりの理想の社会を構想するのはよいが、それを社会に押し付けるほどに正しいという確信をどうやって持てるのだろうか。あまりにも傲慢ではないだろうか。実際、そのような革命では多くの人が悲惨な運命をたどった。ある人びとの傲慢さゆえに。

私は、ハイエク懐疑主義を取りたいし、これからも文末に「思う」を多用し続けると思う。

Spotifyに乗り換えた話

音楽を持ち歩く歴史

はじめて携帯できる音楽プレーヤーに触ったのは中学生の頃だったろうか、新しもの好きのいとこにSonnyのカセットテーププレイヤー版のWalkmanを見せてもらった時だったような気がする。それ以前はヘッドフォンで音楽を聴くという体験自体もほとんどなかったと思う。華奢なヘッドフォンで耳元で鳴る音楽が印象的だった。

それからしばらくしてポータブルカセットテーププレイヤーを買った。Sonnyのものではなく、AIWA製だったように記憶している。貸しレコード屋で借りてきたLPをカセットテープにダビングをして音楽を聴いていた。

その後、何台かポータブルカセットテーププレイヤーを買い替え、ポータブルCDプレイヤー、ポータブルMDプレイヤーに移行した。しかし、MDプレイヤーの時代は短かった。

音楽への愛とiPod classic

そのうちMP3プレイヤーが出てきて、物理的な可動部分がないため圧倒的に小さくなったことや、CDをデータ化すると勝手に曲名も判別することなどに感動した。

iPodを買う前、CDのデータ化のためにiTunesを使い始めたのが、Apple製品との出会いだった。以前に買ったMP3プレイヤーのおまけについていたソフトウェアより、使いやすさもデザインのかっこよさも圧倒的だった。結局、iTunesは、自分の音源の管理に現在まで使い続けている。

iTunesで音源をAppleに囲い込まれたこともあって、iPod classic(当時は単にiPodと呼ばれていたと記憶している)を買った。これは、私が音楽を持ち運ぶために買ったデバイスのなかでいちばん気に入っている製品だ。

なんといっても、自分の持っている音源のすべてを持ち歩けるようになったのがすばらしい。それまでは、家を出る前に、今日はどの音楽を持っていこうかといちいち選ばなければならなかったが、そんな不便はなくなり、その時の気分で好きな曲を聴ける。この便利さはすばらしかった。

iTunesの使いやすさとも相まって、iPod classicは音楽が好きな人が、音楽の好きな人のために作っている製品という印象がある。今ではバッテリーが弱っているので使うことはないけれど、大切に保管してある。

ストリーミングサービスでGoogle Play Musicを選んだ理由

 iPod classicはすばらしかったし、思い入れがあった。しかし、ストリーミングサービスは、圧倒的に広い範囲の音楽をいつでも聴くことができる。いままで音楽にかけてきた金額を考えれば、月額料金を払っても十分その価値があると思った。

日本に大手のストリーミングサービスが上陸したとき、洋楽好きの私にとっての選択肢は、Apple MusicとGoogle Play Musicの二択だった。iTunesiPhoneを使っているのでApple Musicに行くのが自然だったのだが、このままAppleのエコシステムに拘束されるのもいやだったのでGoogle Play Musicを選んだ。

Google Play Musicも自分の音源はアップロードできるし、収録されている曲もほぼおなじ規模だったから、Google Play Musicに不満は感じなかった。そして、聴く音楽の範囲は確実に広がった。例えば、ビートルズがストリーミングサービスに公開された時、ビートルズとメンバーのソロアルバムを全部聴く、ということをした。これは、ストリーミングサービスでなければめんどう過ぎてしなかったと思う。

さようならGoogle Play Music、これからはSpotifyと暮らします

 先日、Beckのライブに行ってきた。

yagian.hatenablog.com

BeckFacebookから、Spotifyにライブのセットリストのプレイリストが作られているという投稿が流れてきた。それで、Spotifyを試してみたところ、Google Play Musicから乗り換えることにした。

まず、プレイリストがおもしろい。そして、デザインがかっこいい。音楽を聴こうという気持ちをそそる要素がある。iPod classicと同じように、音楽好きの人が音楽好きの人のために作っているサービスという印象がある。

Spotifyと比べると、Google Play Musicは、デザインがなんとももっさりとしている。AIが作っていると覚しいプレイリストもおもしろさに欠ける。IT技術は優れているのかもしれないけれど、本気で音楽を楽しんでいる人が作っている感じがしないサービスだった。

さようならGoogle Play Music、これからはSpotifyと暮らします

Beckと私と80年代とオルタナティブロック

Beckのライブ@新木場Studio Coastに行ってきた

Beckの久しぶりの新譜"Colors"が出るというニュースを聞き、楽しみにして待っていた。そうしていたら、FacebookBeckが10月に来日するという告知が突然でた。しかも、武道館と新木場Studio Coastというライブハウスの二回公演だという。どんな事情があるのかわからずかなり驚いたが、即座にこれは行かねばならないと思った。

フェスで来日はしていたけれど、単独公演は8年ぶり。私はBeckのライブには行ったことがなかったので、この機会を逃すと次はいつになるかわからない。しかも、ライブハウスでのライブがあるというのだ。

そこで、抽選があたるかドキドキしながら新木場Studio Coastのライブの先行抽選に申し込んだ。その時は武道館のライブでCorneliusが出演するという情報がなかったので、これはもう、ライブハウス一択だなと思った。抽選結果が発表された日、あっさり当選の連絡があって拍子抜けした。Beckの日本での人気、動員力がどの程度なのかちょっとわからないが、緊急来日で告知の時間が足りなかったこともあって、思いの外申し込み人数が少なかったのかもしれない。

Beck”Colors”と80年代と私

ライブが10/24で、新譜の”Colors”のリリースが10/10だった。当日すぐにGoogle Play Musicにアップされていて、さっそく聴いてみた。

1曲目の”Colors”を聴いたオレの第一印象は「これ、Duran Duranか?」だった。最後まで聴いてわかったのは、どうもこのアルバムのテーマは80年代ポップらしい。評判は悪くないようだが、80年代ポップに肯定的なイメージがない私の気持ちは微妙だった。

 80年代は私の中学生から大学生の時期に重なる。ポップミュージックをいちばん聴いていた時期だ。まずは当時全盛の日本の歌謡曲からはじまり、洋楽のヒットチャートを追いかけ、そして、徐々に同時代のポップミュージックより60年代、70年代の音楽のほうがかっこいいことに気がつく。ヒットチャートの曲は耳に入ってくるけれど、自分でダビングしたカセットテープでは、もっぱら昔のポップミュージックを聴いていた。

オルタナティブロックと90年代と私

カート・コバーンノエル・ギャラガーは私と同い年だ。

1990年に大学を卒業し、社会人になった。以前ほどはポップミュージックを聴かなくなっていたけれど、80年代とは音楽の流れが変わり、ヒップホップとオルタナティブロックの存在が大きくなっているようだった。

カート・コバーンノエル・ギャラガーの気持ちはよくわかる。彼らも80年代ポップを聴いて育ち、それにうんざりして、それとは違うオルナティブなロックをやりたいと思ったのだろう。華やかな電子音ではなく、ローファイな荒れた音。鋲のついたジャケットの衣装ではなく、普段着のグランジな服装。私には80年代ロックよりはずっとかっこよく見えた。

地味で辛気臭いオルタナティブロック

しかし、80年代ポップを通過していない若い人にとって、オルタナティブロックは地味で辛気臭く聴こえるのかもしれない。ある若い人が、アメリカのロックは暗いという印象を持っていたが、80年代ポップを聴いてこんなに明るい曲があるのか、と思ったという話を聞いたことがある。

たしかに、80年代を通過してきた私にとってはオルタナティブロックはかっこよいけれど、はじめから「オルタナティブ」なロックを聴いてきた人にとっては、80年代ポップが新鮮に感じられるのだろう。

Beckのライブで聴き比べる

Beckのライブでは、"Colors"からの曲もかなり演奏していたし、90年代のオルタナティブロックっぽい曲も演奏した。

私には、やっぱりオルタナティブロックっぽい曲の方がかっこよく響く。しかし、"Colors"からの曲は、たしかにカラフルで華やかだった。ライブハウスで聴くんだったらぜったいオルタナティブロックだけれども、スタジアムだったら”Colors”の曲も盛り上がっていいかもしれないと思った。

"Colors"から一曲紹介したい。モンティ・パイソンテリー・ギリアム風のPVの"Wow"という曲。耳なじみはいい。

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アンコールで演奏してくれた、私の大好きな”Where It's At”。

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私はやっぱりオルタナティブロックが好きだ。