Titus Kaphar「アートは歴史を「修正」できるか」

TED Radio Hourを聴く

このブログで、アメリカのPodcastの話をよく取り上げていると思う。

英語のリスニングの練習という意味もあるが、それ以前に内容が興味深い番組が多くあり、楽しんで聴いている。

そのなかに"TED Radio Hour"という番組がある。この番組、毎回テーマを設定して、そのテーマに関連するTEDの講演のさわりと、講演者のインタビューで構成されている。もし、興味がわけば、TEDの講演を聴いてみてください、という流れになる。

今回は"How Art Changes Us"というテーマである。いちばん最初に紹介されたTitus Kapharというアフリカ系アメリカ人の画家の話に惹きつけられ、TEDの講演を聴いてみた。
www.npr.org

 Titus Kaphar「アートは歴史を「修正」できるか」

www.ted.com

Titus Kapharは、アメリカの伝統的な絵画に描かれたアフリカ系アメリカ人に着目した作品をつくっている。

文章で説明をするのが難しいので実例を見てもらいたい。白人の肖像画の背景にアフリカ系の使用人が描かれている。元の絵ではあくまでも背景の一部の扱いである。しかし、Titus Kapharはその彼らも歴史を背負った人間である、ということ表現するために、彼らに視線が向くように「修正」を施した絵を描く。

TEDの講演のなかでは、アフリカ系の人が背景に溶け込むように描かれている絵の複製を作り、彼以外の白人を白く塗りつぶすというパフォーマンスをしている。

http://magazine.art21.org/wp-content/uploads/2015/12/9519f67fa7d0b2deef18562a5d60084e.jpg

合衆国憲法「修正条項」と政治的に「不適切」な銅像への対応

この講演のなかでTitus Kapharは、過去の歴史は消し去ることはできない、と言っている。合衆国憲法の修正条項(amendment)は、修正前の条項と併置されている。そのことで、その当時のアメリカ合衆国と現在の修正されたアメリカ合衆国が対比して示されているのだ、という。

彼の主張は納得できる。

最近、アメリカでは、黒人差別をしていた人の像の扱いに関して議論が高まっている。Titus Kapharは、そのような像を引き倒すべきではないと語っている。そのような像の隣に新しい像を建てて、新しい意味を与えるべきだと主張する。合衆国憲法の修正前の条項と修正条項が併置されているように。

ポリティカル・コレクトネスの皮相さとTitus Kapharの「修正」の深み

 以前、クリント・イーストウッドポリティカル・コレクトネスに疑問を表明していることについて、ブログを書いたことがある。私自身も、ポリティカル・コレクトネスについてずっと違和感を感じている。

yagian.hatenablog.com

ポリティカル・コレクトネスの主張は、皮相的にも関わらず、独善的で不寛容だという印象を拭えない。これに比べるとTitus Kapharが言う「修正(amend)」ははるかに深みがあり、感銘を受けた。

バーミヤンの大仏の再建について

似たようなことをバーミヤンの破壊された大仏の再建問題について感じている。

仏教では永遠なものはない、と教えている。当然、形のある仏像は永遠のものではない。破壊された大仏の後の空間は、まさに仏教のその教えを表現していると思う。その真実から目を逸し、その空間に再度大仏を建立することが、仏教の教えに則ったことなのか、強く疑問を感じる。

かつてそこには大仏があり、そして、それが破壊されたという歴史がある。そのことを表現する空間、それこそがいまありうべきバーミヤンの大仏の姿なのではないだろうか。タリバンは、はからずも仏教の教えを実現してしまったのだ。

自分の考えが正しい根拠はどこにあるのか?

「かくて行動経済学は生まれり」と「ブラック・スワン

マイケル・ルイス「かくて行動経済学はうまれり」を読み終わった。行動経済学者のリチャード・セイラー(この本のなかにも登場する)がノーベル賞を受賞したからではなく、図書館で予約を入れておいたのが、たまたまこのタイミングで順番がまわってきたからである。

非常におもしろく、興味深い本だった。行動経済学の契機となる研究を行ったイスラエル人の心理学者、ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーを主人公としたノンフィクションだ。彼ら二人のライフヒストリー、キャラクター、二人の関係とその変遷もおもしろいし、彼らの研究自体も興味深い。

経済学では、人間は合理的な行動とる、という仮説を基礎としている。もちろん、個々の人間の個々の行動がすべて合理的という訳ではない。しかし、平均すれば合理的な行動に落ち着く、ということである。しかし、カーネマンとトヴェルスキーは、人間はある一定の傾向を持って合理的な判断、意思決定、行動から離れることを示した。この研究によって、「人間は合理的な行動をとらない」という前提に基づく経済学、行動経済学が生まれた。

この本を読みながら、ナシール・ニコラス・タレブ「ブラック・スワン」を思い出していた。「ブラック・スワン」では、ごくまれにしか起きないが、発生すると破滅的な影響を与える事象、例えばリーマン・ショックのような、を人間は過小評価しがちで、合理的に対処できないことを論じている。

カーネマンは幼少期にナチス占領下のフランスからイスラエルに移住してきた経験を持つ。カーネマンとトヴェルスキーのふたりともイスラエルの存亡をかけた戦争での軍役の経験を持っている。一方、タレブが「ブラック・スワン」のアイデアを得たのは、それまで長年平和だったレバノンが一夜にして内戦の巷と化してしまった経験にもとづいている。

 この両者には、過酷な経験に立脚したリアリスティックな人間の知性への懐疑、が共通しているように思う。

かくて行動経済学は生まれり

かくて行動経済学は生まれり

 
ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質

ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質

 
ブラック・スワン[下]―不確実性とリスクの本質
 

自分の考えが正しい根拠はどこにあるのか

自分も懐疑主義的だ。

さまざまな事柄に対して、自分なりの考えは明確に持っている方だと思う。もちろん、それぞれの自分の考えに対して自分なりの根拠を持っている。しかし、一方で、同じ事柄に対して自分と異なる考えを持っている人がいることは理解しているし、多くの場合、自分の考えが少数派だったりする。

同じ事柄を見て、自分と違う考えを持つ他人がいる、という事象は非常に興味深い。当然ながら、自分の観点から見れば、他人の考えよりは自分の考えの正しいような印象を持つ。しかし、客観的に見て、自分の考えが他人の考えより正しいという確実な根拠はないように思える。

あたかも自分の考えが正しい、ということを信じているかのように見える人がいる。しかも数多く。そのような人は、自分の考えが他人の考えと比べてより正しいという具体的な根拠を持っているのだろうか?それとも単に自分の考えが正しいと信じているだけなのだろうか。

私の文章には「思う」が頻出する。文体の美学としては、断定した方が美しいのかもしれない。しかし、私は自分の考えに懐疑的なので、あくまでも自分の考えに過ぎないものを断定するのは不誠実なように感じてしまう。ここまでは確実な事実であり、ここからは不確実な自分の考えだということを明示しておきたいのである。

他人へのアドバイスは難しい

 自分の考えの普遍的な正しさについては懐疑的だが、自分の行動に対する決断にはあまり迷いがない。それは、自分の決断の根拠には自分の考えで十分であり、それには普遍的な正しさが必要とは特に感じない。

しかし、他人の決断に影響を与えうる場合、自分の不確かな考えを伝えること、つまり、他人にアドバイスすることは難しいと思っている。自分の決断においては、自分の考えの不確かさに、自分が責任を取ることはできる。しかし、他人の決断において、自分の考えの不確かさに責任は負えないと思うからだ。

だから、あくまでも自分があなたの立場だったらこのように考える、ということは伝えるけれど、こうすべきだ、とは言えないし、言うことが不誠実に感じる。だから、いとも簡単にアドバイスとして自分の考えをとうとうと述べ、場合によっては押し付ける人を見ると、なんていうか、人間の多様性について思いを馳せてしまう。

「構成的主知主義」批判とハイエク

 このような懐疑主義を持っていると、フリードリヒ・ハイエクの思想は実にしっくりくる。

彼は、人間の知性によって理想の社会を設計できるというような考え方「構成的主知主義」を厳しく批判する。例えば、フランス革命ロシア革命のように、自分の考える理想の社会、国を実現するために手段を選ばないような行為の基礎となっている考え方である。

人間や社会は個人の知性によって解明するには複雑過ぎると思う。自分なりの理想の社会を構想するのはよいが、それを社会に押し付けるほどに正しいという確信をどうやって持てるのだろうか。あまりにも傲慢ではないだろうか。実際、そのような革命では多くの人が悲惨な運命をたどった。ある人びとの傲慢さゆえに。

私は、ハイエク懐疑主義を取りたいし、これからも文末に「思う」を多用し続けると思う。

Spotifyに乗り換えた話

音楽を持ち歩く歴史

はじめて携帯できる音楽プレーヤーに触ったのは中学生の頃だったろうか、新しもの好きのいとこにSonnyのカセットテーププレイヤー版のWalkmanを見せてもらった時だったような気がする。それ以前はヘッドフォンで音楽を聴くという体験自体もほとんどなかったと思う。華奢なヘッドフォンで耳元で鳴る音楽が印象的だった。

それからしばらくしてポータブルカセットテーププレイヤーを買った。Sonnyのものではなく、AIWA製だったように記憶している。貸しレコード屋で借りてきたLPをカセットテープにダビングをして音楽を聴いていた。

その後、何台かポータブルカセットテーププレイヤーを買い替え、ポータブルCDプレイヤー、ポータブルMDプレイヤーに移行した。しかし、MDプレイヤーの時代は短かった。

音楽への愛とiPod classic

そのうちMP3プレイヤーが出てきて、物理的な可動部分がないため圧倒的に小さくなったことや、CDをデータ化すると勝手に曲名も判別することなどに感動した。

iPodを買う前、CDのデータ化のためにiTunesを使い始めたのが、Apple製品との出会いだった。以前に買ったMP3プレイヤーのおまけについていたソフトウェアより、使いやすさもデザインのかっこよさも圧倒的だった。結局、iTunesは、自分の音源の管理に現在まで使い続けている。

iTunesで音源をAppleに囲い込まれたこともあって、iPod classic(当時は単にiPodと呼ばれていたと記憶している)を買った。これは、私が音楽を持ち運ぶために買ったデバイスのなかでいちばん気に入っている製品だ。

なんといっても、自分の持っている音源のすべてを持ち歩けるようになったのがすばらしい。それまでは、家を出る前に、今日はどの音楽を持っていこうかといちいち選ばなければならなかったが、そんな不便はなくなり、その時の気分で好きな曲を聴ける。この便利さはすばらしかった。

iTunesの使いやすさとも相まって、iPod classicは音楽が好きな人が、音楽の好きな人のために作っている製品という印象がある。今ではバッテリーが弱っているので使うことはないけれど、大切に保管してある。

ストリーミングサービスでGoogle Play Musicを選んだ理由

 iPod classicはすばらしかったし、思い入れがあった。しかし、ストリーミングサービスは、圧倒的に広い範囲の音楽をいつでも聴くことができる。いままで音楽にかけてきた金額を考えれば、月額料金を払っても十分その価値があると思った。

日本に大手のストリーミングサービスが上陸したとき、洋楽好きの私にとっての選択肢は、Apple MusicとGoogle Play Musicの二択だった。iTunesiPhoneを使っているのでApple Musicに行くのが自然だったのだが、このままAppleのエコシステムに拘束されるのもいやだったのでGoogle Play Musicを選んだ。

Google Play Musicも自分の音源はアップロードできるし、収録されている曲もほぼおなじ規模だったから、Google Play Musicに不満は感じなかった。そして、聴く音楽の範囲は確実に広がった。例えば、ビートルズがストリーミングサービスに公開された時、ビートルズとメンバーのソロアルバムを全部聴く、ということをした。これは、ストリーミングサービスでなければめんどう過ぎてしなかったと思う。

さようならGoogle Play Music、これからはSpotifyと暮らします

 先日、Beckのライブに行ってきた。

yagian.hatenablog.com

BeckFacebookから、Spotifyにライブのセットリストのプレイリストが作られているという投稿が流れてきた。それで、Spotifyを試してみたところ、Google Play Musicから乗り換えることにした。

まず、プレイリストがおもしろい。そして、デザインがかっこいい。音楽を聴こうという気持ちをそそる要素がある。iPod classicと同じように、音楽好きの人が音楽好きの人のために作っているサービスという印象がある。

Spotifyと比べると、Google Play Musicは、デザインがなんとももっさりとしている。AIが作っていると覚しいプレイリストもおもしろさに欠ける。IT技術は優れているのかもしれないけれど、本気で音楽を楽しんでいる人が作っている感じがしないサービスだった。

さようならGoogle Play Music、これからはSpotifyと暮らします

Beckと私と80年代とオルタナティブロック

Beckのライブ@新木場Studio Coastに行ってきた

Beckの久しぶりの新譜"Colors"が出るというニュースを聞き、楽しみにして待っていた。そうしていたら、FacebookBeckが10月に来日するという告知が突然でた。しかも、武道館と新木場Studio Coastというライブハウスの二回公演だという。どんな事情があるのかわからずかなり驚いたが、即座にこれは行かねばならないと思った。

フェスで来日はしていたけれど、単独公演は8年ぶり。私はBeckのライブには行ったことがなかったので、この機会を逃すと次はいつになるかわからない。しかも、ライブハウスでのライブがあるというのだ。

そこで、抽選があたるかドキドキしながら新木場Studio Coastのライブの先行抽選に申し込んだ。その時は武道館のライブでCorneliusが出演するという情報がなかったので、これはもう、ライブハウス一択だなと思った。抽選結果が発表された日、あっさり当選の連絡があって拍子抜けした。Beckの日本での人気、動員力がどの程度なのかちょっとわからないが、緊急来日で告知の時間が足りなかったこともあって、思いの外申し込み人数が少なかったのかもしれない。

Beck”Colors”と80年代と私

ライブが10/24で、新譜の”Colors”のリリースが10/10だった。当日すぐにGoogle Play Musicにアップされていて、さっそく聴いてみた。

1曲目の”Colors”を聴いたオレの第一印象は「これ、Duran Duranか?」だった。最後まで聴いてわかったのは、どうもこのアルバムのテーマは80年代ポップらしい。評判は悪くないようだが、80年代ポップに肯定的なイメージがない私の気持ちは微妙だった。

 80年代は私の中学生から大学生の時期に重なる。ポップミュージックをいちばん聴いていた時期だ。まずは当時全盛の日本の歌謡曲からはじまり、洋楽のヒットチャートを追いかけ、そして、徐々に同時代のポップミュージックより60年代、70年代の音楽のほうがかっこいいことに気がつく。ヒットチャートの曲は耳に入ってくるけれど、自分でダビングしたカセットテープでは、もっぱら昔のポップミュージックを聴いていた。

オルタナティブロックと90年代と私

カート・コバーンノエル・ギャラガーは私と同い年だ。

1990年に大学を卒業し、社会人になった。以前ほどはポップミュージックを聴かなくなっていたけれど、80年代とは音楽の流れが変わり、ヒップホップとオルタナティブロックの存在が大きくなっているようだった。

カート・コバーンノエル・ギャラガーの気持ちはよくわかる。彼らも80年代ポップを聴いて育ち、それにうんざりして、それとは違うオルナティブなロックをやりたいと思ったのだろう。華やかな電子音ではなく、ローファイな荒れた音。鋲のついたジャケットの衣装ではなく、普段着のグランジな服装。私には80年代ロックよりはずっとかっこよく見えた。

地味で辛気臭いオルタナティブロック

しかし、80年代ポップを通過していない若い人にとって、オルタナティブロックは地味で辛気臭く聴こえるのかもしれない。ある若い人が、アメリカのロックは暗いという印象を持っていたが、80年代ポップを聴いてこんなに明るい曲があるのか、と思ったという話を聞いたことがある。

たしかに、80年代を通過してきた私にとってはオルタナティブロックはかっこよいけれど、はじめから「オルタナティブ」なロックを聴いてきた人にとっては、80年代ポップが新鮮に感じられるのだろう。

Beckのライブで聴き比べる

Beckのライブでは、"Colors"からの曲もかなり演奏していたし、90年代のオルタナティブロックっぽい曲も演奏した。

私には、やっぱりオルタナティブロックっぽい曲の方がかっこよく響く。しかし、"Colors"からの曲は、たしかにカラフルで華やかだった。ライブハウスで聴くんだったらぜったいオルタナティブロックだけれども、スタジアムだったら”Colors”の曲も盛り上がっていいかもしれないと思った。

"Colors"から一曲紹介したい。モンティ・パイソンテリー・ギリアム風のPVの"Wow"という曲。耳なじみはいい。

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アンコールで演奏してくれた、私の大好きな”Where It's At”。

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私はやっぱりオルタナティブロックが好きだ。

カレンダーの合理化

等間隔でジムに通いたいが

いま、週二回のペースでジムに通っている。平日の夜に一回、週末に一回のペースである。

体調を考えると、中二日のペースがいちばんよいように思うけれど、平日に週二回行くのはちょっとむずかしいし、また、週末にはゆっくりジムに行きたいので、結局、中二日と中三日が交互になる。

等間隔でジムに通いたいが、一週間が7日だから、それが難しくなっている。

なぜ、一週間が7日なのか

直接的には創世記の世界創造のサイクルが7日だったから現代の一週間が7日になっているのだろうけれど、なぜ、世界創造のサイクルが7日になったのだろうか。また、その7日間が1週間というサイクルに当てはめられたのだろうか。

これは私の憶測だが、月の満ち欠けのサイクルが約28日で、28が7で割り切れることもひとつの要素なのだろう。

一週間が7日であることの不都合

しかし、一週間が7日である、ということはさまざまな不都合がある。

まず、7が素数であること。冒頭のジムの事例のように、一週間のなかで一定期間のサイクルを作ることができない。

また、太陰暦であれば月と週のサイクルが整合していたが、太陽暦では整合性がない。第1週、第2週という言い方もするが、第1週が土曜日1日だけのこともあるし、日曜日から土曜日まで7日間のこともある。第5週は存在しない場合もある。

これに対して1日以下の時間の単位は、1日は24時間で、1時間は60分であり、1分は60秒、というように上位と下位のサイクルが整合している。1日が24時間3分で、1日と時間のサイクルがずれるということがない。

中国語だと曜日は星期一(月曜日)、星期二(火曜日)と続き、星期六(土曜日)、星期日(日曜日)となる。月とか火とか、風流ではあるけれど、慣れないと覚えにくい。月の名前は現代の日本では数字になっているが、英語ではそれぞれ固有の名前がついている。

これはいくらなんでも不合理過ぎないだろうか?

カレンダーの合理化案

年、月、週という概念を活かしつつカレンダーを合理化できないだろうか。

1週間を6日にして、1か月を30日にする。週と月のサイクルが一致し、月の日数の変化もなくなる。そして、一年の残りの日をうるう週として5日ないし6日を年末に置く。

一週間のうち2日を休日とする。そうすると休日が増えるが、祝日は必ずこの休日に含めるようにする。そして、うるう週は年末の休日とする。

カレンダーは、地球の自転、月の公転、地球の公転という独立したサイクルの調和をとるところに難しさがある。しかし、太陽暦では月の公転のサイクルを切り捨ててしまった。そこまでするなれば、もう、このぐらいの合理化をしてもよいのではないだろうか。

ファン冥利に尽きる:今シーズンのヤンキース

今シーズンのヤンキースの振り返り

ワイルドカードプレーオフを逆転で勝ち、地区シリーズを2敗から3連勝で逆転した。これからリーグチャンピオンシップシリーズが始まる。今シーズンのヤンキースには、もう、十分以上楽しませてもらっているが、さらにシーズンは続く。
昨シーズンの中盤にアレックス・ロドリゲスが引退を表明して以来、若手中心にメンバーを一新した。有望なプロスペクトたちが集まっていたから、これからしばらくは若手の成長を見るのが楽しみだ、数年後にはワールド・シリーズに手が届くかもしれない、と期待していた。それが、もう、今シーズン、若手が開花し、まだヤンキースの今シーズンは続いている。まさにファン冥利に尽きる。
ヤンキースPodcastを定期的に聴いているが、特に印象的だったのは、キャンプ期間中のイベントでのファンとキャッシュマシGMの質疑応答の中継だった。ファンはみな興奮しており、口を揃えて質問の冒頭にこのオフのキャッシュマシの仕事を賞賛、感謝していた。
確かに、アレックス・ロドリゲスとの10年契約は大きな負の遺産だったが、その後のチームの刷新は見事だった。そして、若手を育てながら勝利に結びつけたジラルディ監督の采配もすばらしかった。
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主力メンバーの交代

昨シーズンの開幕戦と今年のワイルドカードプレーオフのスターティングラインナップを比較してみる。まさに、別のチームのようである。
昨シーズンはクリーンアップは、1970年代生まれが2人に、1980年生まれが1人。今シーズンは、2番に最強打者を置く現代風のラインナップで、クリーンアップという概念が当てはまらない。そして、2番から6番まで1990年代生まれがならんでいる。特に、1992年生まれの三人、アーロン・ジャッジ、ゲイリー・サンチェス、グレッグ・バードは、コア・フォー(デレク・ジーターマリアーノ・リベラアンディ・ペティット、ホルヘ・ポサーダ)に並ぶ存在となることが約束されている。

2016/4/5開幕戦
打順 選手 守備位置 生年
1 Jacoby Ellsbury CF 1983
2 Aaron Hicks LF 1989
3 Alex Rodriguez DH 1975
4 Mark Teixeira 1B 1980
5 Carlos Beltrán RF 1977
6 Brian McCann C 1984
7 Chase Headley 3B 1984
8 Starlin Castro 2B 1990
9 Didi Gregorius SS 1990
2017/10/3ワイルドカードプレーオフ
打順 選手 守備位置 生年
1 Brett Gardner LF 1983
2 Aaron Judge RF 1992
3 Gary Sánchez C 1992
4 Didi Gregorius SS 1990
5 Starlin Castro 2B 1990
6 Greg Bird 1B 1992
7 Aaron Hicks CF 1989
8 Jacoby Ellsbury DH 1983
9 Todd Frazier 3B 1986

Wall Street Journal のこの記事によると、チーム内の雰囲気も大きく変わっているらしい。かつてはキャンプジーターが率いる厳しく、ある意味「ビジネスライク」な雰囲気もあったが、いまではジーターの影響は一掃されて野球を楽しむ雰囲気になっているという。テレビを通じて見ても、若い選手が楽しそうにしている様子はわかる。ジラルディ監督も、この変化を肯定しているという。
www.wsj.com

ベテランの価値

1992年生まれの三人はまばゆい輝きを放っている。しかし、ベテランもうまく噛み合っている。
地区シリーズ第5戦、2対1で迎えた9回表、インディアンズのクローザー、コーディ・アレンに対し、トッド・フレイジャーがファールで粘ってフォアボールを選び、ブレット・ガードナーもさらに粘って、最後はタイムリーヒットを打った。この二人の重要な場面での粘りに、ベテランの価値を見ることができた。
コア・フォーが若手時代にも、ポール・オニール、ティノ・マルチネスといったベテランが渋い働きをしていた。それを思い出させる場面だった。

データに基づく野球の革新

昨シーズンぐらいから、MLBでデータに基づく野球の革新が急速に進んでいるように思う。
新旧ラインアップの比較のところでも書いたが、すでに4番に最強打者を据えるクリーンアップという考え方は過去のものとなっている。
角度をつけたフライを打ち上げることが有利だとするフライボールレボリューションは、ヤンキースの打線にも大きな影響を与えている。アーロン・ジャッジはフライを打ち上げることでホームランを量産しているが、ブレット・ガードナーやディディ・グレゴリウスもフライボールレボリューションの影響でホームランが増えていると思う。
田中将大がシーズン中、ホームランをかなり打たれたのは、逆にフライボールレボリューションに対応しきれていなかったように見えた。以前のように、低めにボールを集めればよいという時代は過ぎ去った。
シーズン最終登板とプレーオフではすばらしいピッチングをしており、対応方法を見出したのではないかと期待したい。また、プレーオフでの投球は、集中力も高く、日本での最後の年を思い出した。サバシアも安定しており、セベリーノもいいピッチングをした。田中も安定すれば、アストロズとも十分戦えるだろう。

カズオ・イシグロと私

カズオ・イシグロノーベル賞

会社の同僚と飲みに行ったあと一杯気分で家に帰り、スマホをチェックしたら、タイムラインにカズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞したというニュースが流れていた。無性にうれしくなった。ずっとカズオ・イシグロのファンだったし、彼の作品がノーベル賞に値すると信じていたけれど、今年受賞するとは予想していなかった。

カズオ・イシグロと私の出会い

カズオ・イシグロをはじめて読んだのは大学の英語の授業だった。

イギリスから来た先生の授業で、イギリスの新進作家の短編集のアンソロジーを読んだ。そのなかにカズオ・イシグロの短編小説があった。その先生が、カズオ・イシグロが日本語を話せるのかどうか、という話をしていた覚えがある。

大学の時の英語の授業には印象に残っているものがある。このイギリスの新進作家のアンソロジーの授業をきっかけにして、それ以来、カズオ・イシグロの新作はずっと追いかけている。そのほかにもアイルランドから来た老先生のジェイムス・ジョイスの「ダブリナーズ」を読む授業も鮮明に記憶に残っている。

カズオ・イシグロと私のそれから

最初に読んだカズオ・イシグロの長編小説は「日の名残り」だった。

カズオ・イシグロの文章は読みやすい。けれどもたくらみが深い。「日の名残り」のさらっと読むとかつて貴族の屋敷の執事の思い出話だが、注意深く読み込むと(ここでは種明かしはしないけれど)また別の様相が見えてくる。

そのあと、彼の長編小説は、初期作をさかのぼって読み、また、新作が出るたびに読んでいる。英語で読んだものもあり、日本語で読んだものもある。英語でも文章そのものはわかりやすい。文章が読みやすいけれど、内容が深い、というところは村上春樹にも通じるところがあるかもしれない。

彼の初期の長編「遠い山なみの光」「浮世の画家」は、日系人や日本が舞台だったりするが、「日の名残り」はイギリスの伝統的な社会を舞台としており、作者が日系人であることとまったく関係のない内容である。このことが、カズオ・イシグロが大きく飛躍する契機だったのだろうと思う。

「わたしを離さないで」は衝撃的だった。この小説は事前の情報をなく読んだ方がよいから内容は紹介しない。

日の名残り」と「わたしを離さないで」はぜひ読んで欲しいと思う。

「異端」の出自の作家たち

英語圏の文学では、「異端」の出自の作家たちがむしろ主流になっている。

トリニダッド島出身のV. S. ナイポール、日本出身のカズオ・イシグロノーベル賞を取った。英語圏の作家で次にノーベル賞を取るのはインド出身のムスリムサルマン・ラシュディかもしれない。

日本でも「異端」の出自の作家が登場している。リービ英雄はアメリカ、台湾、日本、中国を越境し、水村美苗は「私小説 from letf to right」で日本語、英語が混在した小説を書いている。

日本近代文学はもともと西洋の「小説」を日本語でいかにして書くか、という問題意識で成立した。初期の日本近代文学の小説家は、ほとんど西洋の言語が流暢だった(尾崎紅葉も英語で西洋の小説を読んでいた)。二葉亭四迷は「浮雲」を書くとき、ロシア語で書いたものを日本語に翻訳していた、という話もある。

日本近代文学はいわば「異端」の出自で成立したものであり、それが一周して英語圏の文学にもフィードバックしている。村上春樹が世界文学 のジャンルに参加しているのもその流れの一環なのだろう。

次のノーベル文学賞はぜひスティーブン・キングに!

去年のノーベル文学賞はディランで、今年はカズオ・イシグロというのは、すごくいい選択だと思う。

ノーベル文学賞は、世界の文学の多様性を紹介する、という意図があるように見える。これまでは地域や言語の多様性を広げてきたが、ディランへのノーベル文学賞の授与には、また別の方向性に向けて広げる、ということが感じられる。

そうであれば、エンターテイメント文学も文学の重要な一部を構成しているのだ、という意味で、次のノーベル文学賞は、ぜひスティーブン・キングに与えてほしい。