我考虑今年年底去台南旅游

我使用的交换外语学习app叫HelloTalk是中国公司拥有的,所以有的时候它审查日记让别人看不见。我在我的博客上传日记链接HelloTalk。

 

I am using the language exchange app called HelloTalk. Since it is owned by a Chinese company, sometimes it censors the moments and makes these moments not to be seen. I upload my moment on my blog and link it to Hello Talk.

 

HelloTalkという言語交換アプリを使っているが、中国企業が所有しているので、たまに投稿を検閲されて他人が読めなくなる。このブログにアップロードして、HelloTalkにリンクする。

 

我考虑今年年底去台南旅游。

2019年年底我和太太去了上海旅游,之后我没去海外旅游。

我想用汉语去旅游。上次我去上海旅游,下次想去台湾。我去过台北,想去台湾南方。

我对大陆中国很感兴趣,是因为大陆中国文化和日本文化的差别比较大,所以我想去大陆中国旅游。去大陆中国旅游的时候,我觉得很有意思同时觉得有点儿紧张。

我对台湾很亲近感,是因为台湾文化和日本文化比较像,所以我想去台湾旅游。去台湾旅游的时候,我觉得又很有意思又觉得轻松开心。


I am thinking about going on a trip to Taiwan this year-end.

My wife and I went traveling Shanghai at the year-end in 2019 and then I have not been abroad.

I want to speak Chinese while traveling. The last time I went on. a trip to Shanghai and next time I am going on a trip to Taiwan. I have been to Taibei and I want to visit southern Taiwan.

I am interested in mainland China because the difference between mainland Chinese culture and Japanese culture is wide, so I want to visit mainland China. When I go on a trip to mainland China, I feel interested and at the same time a little nervous.

I feel an affinity with Taiwan because Taiwanese culture and Japanese culture are relatively close, so I want to visit Taiwan. When I go on a trip to Taiwan, I feel interested and relaxed.


今年の年末、台南に旅行しようかと思っている。

2019年の年末、つれあいと一緒に上海旅行をした。その後海外旅行には行っていない。

中国語を使った旅行がしたい。前回は上海に旅行したので、次回は台湾に旅行したい。台北には行ったことがあるので、台湾南部に旅行したい。

陸中国に興味がある。それは、大陸中国と日本文化の差が大きいからだ。だから大陸中国に旅行したい。大陸中国を旅行している時は、おもしろいと同時にちょっと緊張する。

台湾には親近感を感じる。それは台湾文化と日本文化が比較的似ているからだ。だから台湾に旅行したい。台湾旅行をしているときは、おもしろいと同時にリラックスできる。

検閲の内面化と表現の自由

ここ半年ちょっとHelloTalkというlanguage exchange用のアプリを使っている。

自分はHelloTalkに日本語ネイティブの中国語と英語の学習者として登録している。中国語ネイティブと英語ネイティブの日本語学習者の書く日本語の作文を添削し、代わりに自分の中国語と英語の作文をそれぞれのネイティブに添削してもらっている。

以前、Lang-8というやはりlanguage exchange用のサイトで英語の作文を書いていた時期があった。英語の作文能力の向上にかなり効果があった。今回は中国語を中心として書いているが、かなり手応えを感じている。中国語のwritingのレベルアップには明らかに効果があるし、speakingにも好影響がある。また、中国語のレッスンの先生がHelloTalkの作文を見ていてくれて、レッスンでの話題に取り上げてくれる。自分で書いた作文をテーマとしてフリートークをすると、話しやすいこともあるし、新しい表現の記憶への定着も進む。

ということで、language exchangeは中国語学習においてはかなり効果的であるが、一つ大きな問題に直面している。

HalloTalkというアプリは中国製である。このため、HelloTalkには中国のSNSで標準的な検閲が行われている。HelloTalkで書き始めた時は、天気が良かった悪かった、体調が良かった悪かった、趣味はゴルフです、こんなおいしいものを食べた、程度の話題で、検閲に引っかかることもなかったのだが、writingの能力がレベルアップするにつれて、自己表現としてもうちょっと複雑な内容を書きたくなってくる。その結果、検閲に引っかかるようになった。

以前、中国のブログサービスを使って中国語の日記を書いていたことがあった。このサービスも検閲制度があり、検閲に引っかかる内容の時はアップロードできなくなるという仕様だった。HelloTalkでは、アップロードできるものの、他人からは見えていないという仕様のようだ。HelloTalkにアップロードすると、普通は「いいね」がついたり、添削してもらえたりする。しかし、他者からの反応がまったくないので、何かがおかしいということに気がつく。そして、どうやら他の人からは見えていないらしいということがわかる。

中国でも統一された検閲基準、検閲方法があるわけでもないらしい。同じ文章がWeChatのmomentに投稿でき、他の人からも見えているようだ。また、どのような検閲基準があるかはユーザーからはまったくわからない。

最初は検閲されること自体がめずらしく新鮮だったし、どうやって検閲を回避できるか婉曲な表現を考えるのもおもしろかった。しかし、時間や精神的な余裕がないとそういう工夫をするのも面倒臭く、純粋に書く気が失せるし、そもそも検閲に引っかかりそうな話題を避けるようになる。

中国の検閲方法は、ある意味効果的で洗練されていると思う。日本の戦前の検閲方法では、伏せ字という方法が使われていた。この方法であれば、どこか検閲されたかが著者にも読者にもわかる。著者も検閲の基準が理解できるし、読者もどのような表現が含まれていたのかを推測することができる。

一方、江藤淳が指摘する太平洋戦争後の進駐軍による検閲では、検閲制度が存在すること自体が秘密とされており、検閲された結果の文章からは検閲されたかどうかがわからない。その結果、筆者側は、そもそも検閲されて削除されてしまうのであればそのようなことを書くことを自ら避ける自己検閲がされるようになり、さらに、進駐軍が去った後も内面化された自己検閲が継続していったと指摘している。この検閲の内面化は、フーコーが「監獄の誕生」で指摘したプロセスそのものである。

HelloTalkの検閲で、そもそも検閲されそうなことを書く気が失せる。これは検閲の内面化プロセスそのものである。書かせたくないことを外部からいちいちチェックするよりは、はじめから書く気を失わせ、検閲を内面化させる方が明らかに効率的だ。そして、何が検閲されるかわからず、検閲された結果も分かりにくいという中国の検閲制度は、効果的に検閲を内面化させる。

こういう中国のインターネットの言語空間に生きていると、検閲されるような話題はそもそも避けるようになるし、抑圧感も強いだろうと思う。台湾や香港と比べると大陸中国の現代の文化にはあまり共感できないのだが、この検閲制度による自己表現の抑圧の文化への影響は強いと思う。

日本にも江藤淳が指摘するようにすでに半ば無意識になっている内面化された検閲はいろいろあると思う。しかし、中国の組織的な検閲されたインターネットの言語空間よりははるかに自由だ。その抑圧された言語空間の一端を経験し、その抑圧感にうんざりすると、自由な言語空間の貴重さがより深く感じられる。

香港の言語空間が抑圧されつつある。おそらく、以前のように香港発のポップカルチャーはもう生まれないのではないかと思う。そう考えると、一党独裁から民主化を成し遂げた台湾は、中華世界、東アジアの中で貴重な存在だと思う。

今回の参議院選挙を見ていると、自由主義を表立って主張する政党がないことは危惧を覚える。反中、嫌中の立場の人たちが、必ずしも言論の自由を重視していないように見えるのはどうしたことだろうか。世界的に自由主義がさまざまな挑戦を受けている現在、言論の自由を守り高めていくことが重要だと思う。最近、自由主義の立場から第二次世界大戦中にコミュニズムファシズムを批判したハイエクの「隷属への道」を読んだところだが、しっかり自由主義を主張する政党が出てきてほしい。

「成績」に意味はあるか?

国際比較をすると、日本の社会人の学習意欲が低いというデータを見かけることがある。調査方法を見ていないのでどの程度正確な結果なのかわからないけれど、直感的に言えば学習意欲が高い人が多いとは思えない。

https://www.meti.go.jp/press/2022/05/20220531001/20220531001-1.pdf?utm_source=meti
学校教育の重要な目的の一つは、卒業後に自己学習する基盤を作ることだと自分は思っている。しかし、実際の学校教育はそのようにできていないように見える。
学校教育では、定期的にテストをして、他者比較できる形で成績をつける。これって一体何の意味があるのだろうか。少なくとも、自己学習をする基盤を作るという目的から見ると弊害しかない。
成績がすぐれない人の学習意欲を削いでいるし、成績が良い人の多くは自分で学習への動機づけできるので学習意欲を高める効果も限定的だ。学校教育のなかで学習意欲が削がれた人は、卒業してから自己学習に取り組む可能性は低いだろう。
Dualingoという語学学習アプリがある。ゲーミフィケーションによって参加者への動機付けをする仕掛けがある。この中で、参加者相互に競う仕掛けがあるのだが、これは、語学のレベルを競うのではなく、どれだけのユニットの学習をしたか、その量を競う仕掛けになっている。語学のレベルは参加者それぞれだから、そこを競うことの意味は乏しいが、学習したユニット数を競うのであれば、語学のレベルを問わず競うことができる。
また、学校の体育会にあるレギュラーと補欠という制度も意味がわからない。練習は試合に出ることを目的としているのだから、体育会に所属して試合に出ないまま卒業するのでは意味がないではないか。ある体育会のメンバーが多いのであれば複数のチームを作ってそれぞれのレベルに合致した大会、試合に参加すればよい(ブラジルのアマチュアのサッカーチームではレギュラーと補欠という概念がないと聞いている)。

会社のなかで、貢献度を評価するという仕組みを持っているのが一般的だ。これも考えてみれば、動機付けには逆効果なのではないかと思うことが多い。これまでの経験に照らすと、平均的には他者評価に比べて自己評価の方が高いため、多くの場合は会社の評価結果は自己評価より低くなり、積極的な動機付けにならないことが多い。また、学校教育と同じでハイパフォーマーは自分で動機付けできる人が多いので、貢献度評価で動機を高める効果も限定的だろう。

私自身、いくつか自己学習をしているテーマがある。そのなかで、資格試験を受験して客観的な評価を受けることはある。もちろん合格すれば動機付けにプラスの効果はあるが、基本的には自分の進捗度を確認したり、強み弱みを把握して今後の学習計画を建てる参考にすることが目的で、他者と成績を比較することはない。

最近、ハイエク「隷属への道」を読みながら、日本には個人相互の自由を尊重し、他者に寛容であるという意味での自由主義は根付いていないとしみじみ思う。この学習と成績の問題も、自由主義の問題と関わりが深いと感じ、思わず長々と文章を書いてしまった。

2022年上期の振り返り

さて、今年も半年が過ぎたので、折り返し点で抱負と達成度を振り返ってみよう。

yagian.hatenablog.com

総論:職業の仕上げを見据えたシフトチェンジの年

抱負の総論として書いたとおり、10月にスタートする新組織の設立に向けて準備を進める半年だった。しかし、まだ準備は不十分で、10月からはかなりの混乱期を経ることになるだろう。今年一年はさまざまなシフトチェンジのための準備と混乱への対応をして過ごすことになる。

また、新型コロナの流行、ロシアのウクライナ侵攻から、ここ5年ぐらい進んできた世界情勢の変化が本格的に顕在化し、その意味でも大きな変化な年になっていると思う。そのような大きな情勢の変化に適応できるようにすることが重要だと感じている。

生活:ルーティーンのキープと体調維持

【年初の目標】

  • 体調維持のためのルーティーンをキープする
  • 疲れたときはムリせずルーティーンを休む
  • 調子のいいときも悪いときもそれなりのピッチング

40歳代は体調がすぐれない時期が続いていたが、50歳代になってから体調を立て直すことができ、好調が続いていた。しかし、今年に入ってから心身ともに調子が下がっている。

年齢的に体調が変化する時期であることと、仕事のシフトチェンジの対応のために、業務の範囲が広がり、またさまざまなストレスも強く、キャパシティを超えていることが原因だと思う。

とはいえ、少なくとも今年から来年上半期はこの体調悪化の根本的な原因は取り除くことはできない状況だから、倒れないようにだましだましやっていくしかない。最低限のルーティーンはキープしつつ、休息も取りつつ、ストレスの解消にも努めつつ、最低限のそれなりのピッチングをし続けようと思う。

この目標はここ数年不変のものである。

職業:定年前の最後のミッションに向けた組織づくり、環境づくり

【年初の目標】

  • 10月以降の新組織の立ち上げ
  • 継続したリモートワークを中心とした業務の基盤整備

年初の抱負にも書いたとおり、現在、10月以降の新組織の立ち上げ、リモートワークを中心とした業務の基盤整備(システム開発とそれを支える業務のあり方、体制の整備)に関わっている。これらを今後5年間を見据えてよりよいものにすることが、会社に対する貢献でもあり、自分の定年前の最後のミッションの成否に関わってくる。

プロジェクトにはいろいろ問題があり、自分が対処しなければならないところもあり、自分にはいかんともし難いところもあり、だけれども、いずれにせよ、自分と周辺の人たちのこれからしばらくの間の業務環境に関わってくるので、しっかり取り組んでいきたい。

生活:定年後の生活のイメージ作りとインフラの整備

【年初の目標】

  • 定年後の生活のイメージ作り
  • 生活のインフラ整備計画づくり

今年は、体調面を考えるとできることに限界があるので、新しいことに取り組むことはせず、なるべくムダなことを削ぎ落として生活をシンプルにすることにつとめてきた。

近い将来、キッチンとリビングのリノベーションをする必要があるが、今年はとりあえず先送りして、仕事と体調が落ち着いてきたところで取り組みたい。

フィジカル:継続すること

【年初の目標】

  • 動ける身体を維持する
  • ランニング:ハーフマラソンを完走できるコンディションを維持する
  • ゴルフ:安定して100を切る基盤を作る
  • ハイキング:ハイキングを楽しむ

ここ数年、フィジカル面での最大の目的は、動ける身体を維持することだ。体調のよい時期は、体力の向上を目指して身体に負荷をかけてきたが、今年は体力の維持、コンディションの維持ができれば上々だと思っている。

1月にハーフマラソン大会に参加し、2時間を切ることができた。しかし、その後は走ることができていない。今、早めの梅雨明けで酷暑が始まっている。ここ数年は夏も走っていたが、今年は体力を維持するという意味で、夏の間の有酸素運動は水泳を中心にしようと思っている。秋から走り始めてコンディションを上げて、1月のハーフマラソン大会に完走できればよいと思う。

ゴルフは、ラウンドを増やそうと計画していたが、ここまではあまりラウンドはできていない。ただ、練習をしていると、これまでの試行錯誤の結果、徐々に安定性、確率が高まってきているように思う。現在の状況を考えると、今年は基盤づくりで、来年また状況が許せばラウンド数を増やしてスコアを向上させたいと思う。

ハイキングもあまり楽しめていないが、秋になったら近場の低山を歩いてみたいと思っている。

全般的には、体調を崩さない範囲で、身体を動かすことを継続していきたい。

語学:継続すること

【年初の目標】

  • 中国語:これまで学んだ中国語の運用能力の向上
  • 英語:トレーニングの継続

中国語は、基本的な文型のシャドーイングとHelloTalk(language exchangeのアプリ)上に書く日記と週1回のレッスンを中心として、これまで学んだ中国語の運用能力の向上に注力している。老師がHelloTalkに書いた日記を使ってレッスンを組み立ててくれているのでこれはかなり効果的だと感じている。今年の総まとめとして12月にHSK口試中級を受験する予定。それが終わったら、HSK5級を目指して本格的に語彙の増強に取り組んでいきたい。

英語も現在のレベルを維持するため、基本的な文型のシャドーイングPodcastヒアリング、HelloTalk上の日記を継続している。来年は定期的にレッスンを受けてみたい。

趣味:移動する人々を追いかける、古典を読む

【年初の目標】

  • 移動する人々を追いかける
  • 古典を読む

今年は比較的おもしろい読書ができているように思う。

文学方面では、チェホフの代表作を読み、また、伊豆旅行を機会に川端康成を読み直すことができた。また、台湾文学・漫画を何冊を読み、そのノスタルジックな感覚に心惹かれた。下期に向けて台湾文学は読み進めようと思った。

冒頭に書いた世界情勢の変化という意味では、第二次世界大戦期の再来感が強い。「アジアの多重戦争」を読むと、ウクライナ侵攻をするロシアと、中国へ侵攻していた日中戦争期の日本に共通性があることに気が付かされた。またハイエク第二次世界大戦中に書いた「隷属への道」が実に現代性を持っていることに驚いた。世界情勢が大きく変化するこの時期に歴史を振り返る意味は大きいと思う。

柔軟に対応する

体調の変化も含め、自分にとって新しい段階の入口を入ったところだと感じている。状況の変化もあるだろうし、先の見通しができず試行錯誤をすることも多いだろう。あまり目標、計画に固執せず、柔軟に対応していきたい。

新しいピッチャーの分業制 稲葉GL、新庄ビッグボスの野球への期待

日本ハムが稲葉GL、新庄「ビッグボス」監督体制になりさまざまな新しい試みをしていて、今シーズンどうなっていくのか追いかけたいという気持ちにさせられている。

ここ10年ぐらい、セイバーメトリクスの導入によって、これまで慣習的に行われいた戦術の検証が進み、取捨選択されるようになってきた。個人的にも疑問に思う戦術がいろいろあったので、それが実証的に棄却されることで得心がいったことが多い。

代表的なところでは打順がある。古典的な考え方としては、出塁率が高く足が速い選手を一番に置き、二番にはバントがうまいつなぎの選手、三番は打率が高い中距離バッター、四番が長打力がある最強打者、五番は勝負強いバッター。

しかし、シンプルに考えれば、打順が早いバッターほど多くの打席数が回ってくるので、打てる順に並べるのが良いように思う。初回以外は一番バッターが先頭打者になるとは限らないし、一番バッターが先頭打者として出塁しなければ、二番につなぎの選手を置く意味がない。

実際にはシミュレーションにより二番に最強打者を置くのが望ましいという研究結果が出ており、この打順の考え方はMLBを中心としてかなり定着してきた。

しかし、投手起用については、打順ほどには検証されていないように見える。セイバーメトリクス以前から、先発投手が100球投げ、そこからはリリーフ投手が繋ぎ、勝てそうな試合では最強のリリーフ投手がクローザーとして起用されるという方法である。これは理想的な投手起用法なのだろうか。

シンプルに考えれば、投手は二巡目に入ると打たれやすくなるので、一巡したら継投するのが良いのではないか。先発とリリーフの区別なく、1試合4〜5人の投手で継投する。より勝つ確率が高まった状態で能力の高いピッチャーを使いたいと考えれば終盤に能力の高いピッチャーを配置するという考え方もあるし、逆に早い段階で点差がついてしまうと後半で逆転することが難しくなるので、前半に能力の高いピッチャーを使うという考え方もあるだろう。このあたりはシミュレーションによる研究を見てみたい。

ここ数シーズン、先発投手をリリーフと別枠で扱わないスターターという起用法が見られるようになった。まだ最適化まで至っていないように見える。

日本ハムの開幕2戦の投手起用を見ていると、まさに打者一巡で交代させている。弱者の戦略で、既成概念にこだわらない起用法を試してくれそうで、大いに期待している。

ニッカン式スコア ソフトバンク対日本ハム - プロ野球 : 日刊スポーツ

スターターを始めたのは、タンパベイ・レイズである。「マネー・ボール」で限られた予算のなかでセイバーメトリクスを活用するチームとしてオークランド・アスレチックスが有名になったが、現在、このタイプのチームとしてはタンパベイ・レイズが最先端だろう。日本ハムも限られた予算で、しかし、斬新な戦術、戦法を試していくチームとなってほしい。

 

 

帝国と国民国家の戦い

在宅勤務では、会議ではなく作業をしている時は、何か音を流していることが多い。以前は、音楽を聴いていることが多かったが、最近はPodcastを聴く機会が増えてきた。

いくつか気に入っているPodcastができた。そのうちの一つが「COTEN RADIO コテンラジオ オフィシャルサイト」である。このPodcastでは、歴史の専門の研究者ではないが、歴史に強い関心を持っている人が、歴史の特定のテーマについて掘り下げた話をしている。掘り下げ方が相当深いこと、また、この人の歴史観が自分と近いことがあり、興味深く聴いている。

そのなかで、第一次世界大戦をテーマとしたシリーズがある。なぜ第一次世界大戦のような凄惨な総力戦が発生したのかを説明するために、フランス革命ナポレオン戦争から説き起こしている。そこでの説明が以前より自分が考えていたことと一致したので、blogに書いてみようと思った。

 

フランス革命絶対王政が打倒され国民国家が成立した。

国民国家以前は、皇帝や王が国を支配していた。その国に住む人たちは、皇帝や王の支配の対象であるが、その国に主体的に参加している訳ではなかった。国同士の戦争はあったが、それはあくまでも皇帝や王の間での戦争であって、極論するとその国に住む人たちには関係なかった。ある国が負けても、その国に住む人たちから見れば統治者である皇帝や王が入れ替わるだけのことだった。戦争に参加するのは皇帝や王に忠誠を誓う人たちや傭兵で、戦争の規模も皇帝や王の権力の範囲内にとどまっていた。

一方、国民国家では、その国に住む人たちが国民として国に参加し、支配している。戦争は国民自身の戦争になるので、国を挙げての総力戦になる。フランス革命を経て発生したナポレオン戦争では、フランス軍は強かった。それは、フランスは国民国家になったため、士気の高い国民から構成される軍隊を持っていたからだった。

ヨーロッパ諸国の支配者たちは、自らの国の体制が革命で打倒されることを警戒しつつも、今までと同じ体制では国民国家となったフランスに対抗できないと考え、国民国家化が進む。

 

明治維新は、国民国家化が進んだヨーロッパ諸国と対抗するため、日本を国民国家とする試みだったと考えている。

江戸時代、戦争には武士のみが参加し、そのほかの人々にとっては主体的に関わるものではなかった。実際、武士のなかには、武士以外の人たちがヨーロッパ諸国の軍隊に協力するのではないかという不安があったという。これはまさしく日本が国民国家以前の状態だったからだ。

明治維新によって江戸時代の身分制度が解体され、国会を開設し国民の政治参加を進めたのはまさに国民国家を形成するためのものだった。西南戦争で士族の反乱を一般の「国民」によって形成された軍隊で鎮圧したことが象徴的である。その後の日清戦争日露戦争も、国民国家対帝国の戦争で、清、ロシアともに国全体からリソースを調達することはできなかった。

 

ウクライナ侵攻では、事前の想定と比較するとロシアが圧倒的に苦戦していると言われている。この戦争は国民国家であるウクライナと実質的に「皇帝」であるプーチンの戦いで、国民国家と帝国の違いがここまでの戦況をもたらす大きな要因なのだろう。海外の新聞を読むと"Putin's invasion"という表現を使っていることがあるが、これはまさに「皇帝」プーチンの戦争であり、ロシア国民の戦争ではないことを表現している。

日清戦争から第二次世界大戦終結までの期間、日本は中国へ侵略をし続けた。清朝時代は国民意識はなかった。辛亥革命以降、国民党(党名を見よ)を中心として国民意識を根付かせるための努力を行なわれていたが、なかなか国民意識は高まらなかった。皮肉なことに、日本の侵略によって反日という形で中国内に国民意識が形成されるようになっていった。

ウクライナも東部と西部で分裂しているという指摘もあったが、ウクライナ侵攻によって国民に式が確固としたものになったように見える。もちろん、国民意識だけで戦争に勝てる訳ではないので、今回の戦争の帰趨はわからない。

日本の周辺には中国をはじめとして「反日」を契機として国民意識が成立した国がある。今回の戦争がどのような結果になるとしても、ウクライナに「反ロシア」を契機とした強烈な国民意識が成立したことは間違いない。

 

最後にゼレンスキー大統領がアメリカ議会での演説の時、9.11と真珠湾攻撃を並列したことについて書いてみたい。

日本ではこのことを面白く思っていない人がいることは知っているし、その心情はわかる。ただ、客観的な認識として、国際的に真珠湾攻撃がどのように捉えられているかを知ることも重要だと思う。

日本以外の地域では、真珠湾攻撃全体主義国家の自由主義国家への攻撃と捉えられている。そして、第二次世界大戦後は日本は(西)ドイツと並んで全体主義国家から自由主義国家に転換したと。

ゼレンスキー大統領はそれぞれの国ごとに演説の内容を変えている。アメリカでは外敵から本土が直接攻撃されたのは911真珠湾攻撃の二回しかない。だから、自国への侵略について共感を得ようとしたゼレンスキー大統領がこの二つを並列するのは自然なことで、日本以外の国際社会で疑問に感じる人はいないだろう。

ハイテクハーフマラソン2022に参加した

ハイテクハーフマラソンに参加した。

ネットタイムが1時間58分53秒で、目標が2時間切りだったから目標達成できてよかったけれど、本当に辛かった。

ハイテクハーフマラソンは、荒川の河川敷がコースになっている。正直単調だけど、アップダウンが少なく、スタートの渋滞もほどほどで、タイムが狙いやすいレースだ。いつも強風に悩まされるのだが、今日は風もなく、寒からず暑からじの天候で、絶好のコンディションだった。富士山がきれいに見えた。このレースとコンディションに助けられての2時間切りである。

レース前は不安がいっぱいでかなり緊張した。レースが久しぶりということもあったし、最近あまり練習ができていなかった。だいたい月に50kmぐらいしか走れていなかった。また、先月、長い距離も走っておこうと21kmのLSDをやってみたが、足が痛くなり、19km弱で途中リタイアした。レース前のダメージを避けたということもある。あと、腰に違和感があり、身体の調子も絶好調とは思なかった。ただ、身体のコンディションは、走ってみないとわからない。

今回のレース計画は、キロ5分35秒〜40秒のペースを維持することだった。キロ5分40秒平均でいけば2時間は切れるから、それより少し速いペースをキープすれば、オーバーペースにもならず、少しづつタイムを貯金できるイメージ。
10kmだと、調子がいいときは50分が切れる。つまり、キロ4分台のペースになる。それを考えると、キロ5分40秒は難しくないような気もするが、毎回17km過ぎから足が痛くなって失速する。
今回はその失速を最小限にするのがテーマだった。スプリットタイムを見ると、最初の1kmは別とすると、16kmまではキロ5分30秒台のタイムが並んでいて、かなりうまくペースを作れたことがわかる。しかし、それでも17km過ぎからは右膝が痛くなり、本当に苦行だった。なんとかキロ5分40秒前半で粘れてゴールできた。

最後の4kmはとにかく辛くて、なぜこの辛さに耐えなければならないのか、ずっと自問自答していた。歩いたって完走できるし、ここでがんばれば、却って身体にダメージがあって健康にも悪い。そして、辛い。

走り終わると次のレースに出たくなるという話もあるが、あまりに辛かったので、正直今後タイムを求めてハーフマラソンに出るかかなり迷っている、というか否定的な気分。身体と心の健康のためには、風光明媚なレースに出て、完走できれば良いのではないかと。
10,000m以下の距離のレースの方が適正もあるし、楽しいのではないかと。

もちろん、これだけ緊張して、自分を追い込む機会はなかなかないから、一年に一回ぐらい挑戦する意味はあるのだけれども。

レースが終わって駅まで歩く道すがら、よちよち、というか、よろよろ歩いていたら、周りの人たちも同じだった。