「成績」に意味はあるか?

国際比較をすると、日本の社会人の学習意欲が低いというデータを見かけることがある。調査方法を見ていないのでどの程度正確な結果なのかわからないけれど、直感的に言えば学習意欲が高い人が多いとは思えない。

https://www.meti.go.jp/press/2022/05/20220531001/20220531001-1.pdf?utm_source=meti
学校教育の重要な目的の一つは、卒業後に自己学習する基盤を作ることだと自分は思っている。しかし、実際の学校教育はそのようにできていないように見える。
学校教育では、定期的にテストをして、他者比較できる形で成績をつける。これって一体何の意味があるのだろうか。少なくとも、自己学習をする基盤を作るという目的から見ると弊害しかない。
成績がすぐれない人の学習意欲を削いでいるし、成績が良い人の多くは自分で学習への動機づけできるので学習意欲を高める効果も限定的だ。学校教育のなかで学習意欲が削がれた人は、卒業してから自己学習に取り組む可能性は低いだろう。
Dualingoという語学学習アプリがある。ゲーミフィケーションによって参加者への動機付けをする仕掛けがある。この中で、参加者相互に競う仕掛けがあるのだが、これは、語学のレベルを競うのではなく、どれだけのユニットの学習をしたか、その量を競う仕掛けになっている。語学のレベルは参加者それぞれだから、そこを競うことの意味は乏しいが、学習したユニット数を競うのであれば、語学のレベルを問わず競うことができる。
また、学校の体育会にあるレギュラーと補欠という制度も意味がわからない。練習は試合に出ることを目的としているのだから、体育会に所属して試合に出ないまま卒業するのでは意味がないではないか。ある体育会のメンバーが多いのであれば複数のチームを作ってそれぞれのレベルに合致した大会、試合に参加すればよい(ブラジルのアマチュアのサッカーチームではレギュラーと補欠という概念がないと聞いている)。

会社のなかで、貢献度を評価するという仕組みを持っているのが一般的だ。これも考えてみれば、動機付けには逆効果なのではないかと思うことが多い。これまでの経験に照らすと、平均的には他者評価に比べて自己評価の方が高いため、多くの場合は会社の評価結果は自己評価より低くなり、積極的な動機付けにならないことが多い。また、学校教育と同じでハイパフォーマーは自分で動機付けできる人が多いので、貢献度評価で動機を高める効果も限定的だろう。

私自身、いくつか自己学習をしているテーマがある。そのなかで、資格試験を受験して客観的な評価を受けることはある。もちろん合格すれば動機付けにプラスの効果はあるが、基本的には自分の進捗度を確認したり、強み弱みを把握して今後の学習計画を建てる参考にすることが目的で、他者と成績を比較することはない。

最近、ハイエク「隷属への道」を読みながら、日本には個人相互の自由を尊重し、他者に寛容であるという意味での自由主義は根付いていないとしみじみ思う。この学習と成績の問題も、自由主義の問題と関わりが深いと感じ、思わず長々と文章を書いてしまった。