政治改革の帰結

郵政民営化法案の衆議院参議院での採決、参議院での否決をきっかけとした衆議院の解散をめぐる小泉首相の対応について連日報道されている。報道を見ていると、小泉首相の行動を「変人」小泉純一郎の個人的な資質で説明しようとする議論が多いように思う。もちろん、彼の個性が大きな要因のひとつであることまでは否定しないけれど、現在の国会、自民党の状況は1988年のリクルート疑惑を発端とした一連の政治改革の帰結と見るべきではないかと思う。*1
当時、政治改革の最大のテーマになっていたのは、リクルート疑惑など政治家とカネをめぐる腐敗の問題である。カネの流れを明確にするために政治資金規正法が改正される一方で、そもそも政治家個人が合法、非合法を含めて無理な集金をしなければならない原因として、中選挙区制が指摘されていた。
中選挙区制では、過半数を占めていた自民党は、ひとつの選挙区に複数の候補を立候補させることになる。自民党の候補者同士は、同じ政党に所属しているのだから、政策に差があるわけではない。当選するためには、必然的に有権者へのサービスを競うこととなり、腐敗の源泉となる。
さらに、ひとつの選挙区に立候補する自民党の候補者同士は、おなじ自民党といっても最大のライバルであり、それぞれ、自民党の中で、違ったグループに所属することになる。このグループが「派閥」を形成する大きな要因となる。派閥のリーダーは、自民党全体の当選者を増やすということよりも、自分の派閥の国会議員を増やすこと目指し、自分の系列の候補者に対して資金援助をする。個々の議員は、より多くの資金を援助してもらえる派閥に所属しようとする。このため、派閥のリーダーは、個々の議員よりも遥かに多くの資金を調達しなければならない。このことも腐敗の源泉となっていた。特に、リクルート疑惑では、派閥の長である有力政治家が軒並みリクルートコスモスの未公開株を受け取っていたが、これは、彼らが合法的な方法では集められないほどの資金を必要としていたことを示している。
中選挙区制の時代、自民党の選挙は、派閥を単位として行われて、自民党の執行部の力は必ずしも強くなかった。このため、自民党国会議員は派閥のリーダーに忠誠を誓い、自民党としての結束は必ずしも強くなかった。
また、中選挙区制の下、自民党が安定して過半数を占めていたため、政権交代は行われなかった。首相の交代は、自民党の総裁任期に応じて行われていた。自民党の総裁は、その時のそれぞれ派閥の国会議員数のバランスで決まっていた。自民党の過半数を制する派閥があるわけではないから、基本的には派閥のリーダーの密室の取引で総裁が決められた。この当時、最大派閥は田中派竹下派だったが、田中派竹下派が自派から総裁を出さない時は、この派閥が選んだ候補者が総裁となった。このため、田中派竹下派は総裁に対して大きな影響力を行使することができた。総裁は、首相としての適性ではなく、まさに派閥の力学で決められ、また、大臣も派閥のバランスで決められていたから、大臣としても適性が考慮されることは少なかった。
一方、野党は、自民党から政権を取る見込みがほとんどない。したがって、独自の法律案、予算案を可決できる可能性はない。このため、国会での質問や審議の妨害などを通じて一種の圧力団体として存在していたにすぎない。自民党、政府は、野党の国会議員資金を提供したり、便宜を図ることで懐柔していた。
このような状況では、有権者の投票行動によって、首相の選任、政府が実行する政策へ影響力を行使することはほとんどできなかった。もっぱら、派閥のリーダーや国会議員、特に、田中派竹下派資金を提供できる圧力団体の力で政策が左右されていた。これでは、民主主義の政治が機能しているとはいえないだろう。
1989年、小沢一郎自民党幹事長の下、伊東正義本部長、後藤田正晴本部長代理という体制で政治改革推進本部が設置された。この時、小沢一郎後藤田正晴が考えていたのは、小選挙区制の導入による政界再編を通じた自民党の派閥を中心とした政治の構造である。中選挙区制では、自民党の候補同士がサービスの提供を競うため、腐敗の源泉となる。小選挙区制にすることで、政党同士の選挙となる。政党が特定の圧力団体からの影響から独立できるように、公的な政党助成金を与える。そして、政治資金規正法によって、資金の流れを透明化する。また、小沢一郎は、保守勢力の結集によって、憲法改正に必要な2/3の議員を集めた政党の成立も視野においていたのだろう。
それでは、この政治改革によって、どのような状況がもたらされたのだろうか。
中選挙区制の時代は、自民党からの公認を得られることは必ずしも大きな問題ではなかった。無所属であっても、派閥のリーダーからの支援が受けられれば当選する可能性があったし、場合によっては公認候補を破って当選することもあった。無所属で立候補して当選しても、選挙後は自民党国会議員と認められることになっていた。これでは、先にも述べたように、個々の国会議員は派閥のリーダーに忠誠を誓っても、自民党としての求心力は弱いことになる。しかし、小選挙区制になれば、自民党から公認されることが重要になる。選挙資金も、政党助成金自民党から提供される。最大の派閥の田中派竹下派であっても、過半数を占めているわけではないから、各選挙区の公認を自由にできるわけではない。この結果、派閥の力は一貫して弱くなり、総裁=首相の力が強くなった。
今回の郵政民営化に関しても、郵政民営化の反対の急先鋒だった亀井静香ですら、自派の反対を取りまとめることができなかった。これは、亀井派国会議員であっても、自民党から公認されなければ亀井静香の支援があったところで当選がおぼつかないからである。
以前であれば、自民党執行部の力は、執行部であることに由来しているのではなく、実力のある派閥のリーダーが執行部の要職に就いていたことに由来していた。しかし、現在では、強力な権限を持つ総裁=首相から任命されていることにその力は由来している。1989年、小沢一郎幹事長の力は、自民党最大派閥である竹下派の実力者であることに由来していた。幹事長だから力があるのではなく、小沢一郎として力があったのである。一方、現在の武部勤幹事長は、個人としての力があるわけではない。小泉総裁=首相から指名されたことによって力を得ている。派閥から総裁=首相に権力が移行した結果、いちばん打撃を受けたのは、旧田中派竹下派である。もはや、かつてのような派閥としての影響力はほとんどない。
それでは、小泉総裁=首相の力の源泉はどこにあるのだろうか。小泉純一郎個人は、自民党の中では主流ではなかった。だから、圧力団体の強い支持を受けているわけではなく、集金力があって派閥の議員の面倒を見ているということでもない。それは、彼が首相であることによって自民党が選挙に勝って政権を維持できる、と自民党国会議員の大部分が考えていることにある。つまり、有権者小泉純一郎を支持していることが、小泉純一郎の力の源泉となっているのである。
1988年、リクルート疑惑が噴出した頃、圧力団体からの資金の提供にまみれた派閥による密室政治が横行していたことを考えれば、現在の政治ははるかにクリーンでわかりやすいものになっていると思う。
森喜朗が小泉総裁=首相に衆議院解散をやめるように説得しに行ってことわられたということがあった。かつての派閥政治の時代であれば、森派竹下派公明党を巻き込んで小泉降ろしをすれば、解散を阻止することができたかもしれない。しかし、もはや派閥にはそれだけの力はなく、総裁=首相としての権限の方がそれを上回っているのである。
小泉純一郎個人として、信念を通す、非情、きわめて頑固という性格もこの行動の要因のひとつではあるが、政治改革がなければそのような権限が彼に与えられることはなかったはずである。

*1:政治改革の経緯については、「新しい日本をつくる国民会議21世紀臨調)」が作成した詳細な年表が参考になった。http://www.secj.jp/s_library/seiji_chronology_1.htm