アウトプットとインプット

仕事の合間や通勤時間に、「寺田寅彦随筆集第一巻」を読んでいる。
昭和22年が初版の岩波文庫だから活字が小さくて、初期老眼の私には少々読みづらかったけれど、だんだん慣れてきた。読み応えがある随筆集である。
このなかに「自画像」という随筆がある。病気療養中に油絵で自画像を描くことを始め、それをきっかけにして気がついたこと、考えたことを書いた作品である。例によってそのなかの一節を引用したい。

……おもしろいのは一色の壁や布の面からありとあらゆる色彩を見つけ出したり、静止していると思った草の葉が動物のように動いているのに気がついたりするような事であった。そして絵をかいていない時でもこういう事に対して著しく敏感になって来るのに気がついた。寝ころんで本を読んでいると白いページの上に投じた指の影が、恐ろしく美しい純粋なコバルト色をしてい、そのかたわらに黄色い補色の隈を取っているのを見て驚いてしまってそれきり読書を中止した事もある。またある時花壇の金蓮花の葉を見ているうちに、曇った空が破れて急に強い日光がさすと、たくさんな丸い葉は見るまにすくすくと向きを変え、間隔と配置を変えて、我れ勝ちに少しでも多く日光をむさぼろうとするように見えた。一つ一つの葉がそれぞれ意志のある動物のように思われなんだか恐ろしいような気もした。(pp141-142)

私は絵は描かないけれど、ウェブログを書いていると周囲の物事に鋭敏になるという経験はしたことがある。
本を読む時も、ウェブログで感想を書こうと思うと、読みが深くなる。引用する文章を書き写しながら新しいことに気がつくということもある。時候のことをウェブログに取り入れようと思うと、鳥や虫の鳴き声や花の香りに敏感になる。しばらくウェブログを休止していると、自分の観察眼が鈍っていることに驚くことがある。
アウトプットを充実させようとするには、当然、インプットが充実しなければならない。しかし、それとは逆に、アウトプットをしようと思うと、自然にインプットが充実するということもあると思う。大量のアウトプットをしている人は、インプットが先行しているのではなく、アウトプットをすることによって観察眼を刺激しているのではないだろうか。
人それぞれのアウトプットの仕方があると思う。絵もいいし、俳句もいいかもしれない。話を聞いてくれる人がいれば、話をすることもいいだろう。どんどんアウトプットすることで、世の中を見る目がどんどん鋭くなっていくと思う。
改めて寺田寅彦の文章と自分の文章を比べてみると、自分の文章の稚拙さ、密度の薄さに気がつく。でも、そんなことにはめげず、どんどんアウトプットしていこうと思う。アウトプットすればするほど、自分なりには向上するところもあるはずと信じている。

寺田寅彦随筆集 (第1巻) (岩波文庫)

寺田寅彦随筆集 (第1巻) (岩波文庫)