レヴィ=ストロースの「構造」とは何か

これまでも何度か書いているけれど、大学時代の専攻は文化人類学だった。
文化人類学には、レヴィ=ストロースというビッグネームがいて「構造主義」という難解なことを提唱しているらしいということが耳に入ってくる。なんとかその「構造主義」というものを理解したいと思うけれど、そもそもレヴィ=ストロースが言っている「構造」とは何を指しているのかよくわからなかった。文化人類学において「構造」という言葉は、社会「構造」とか「構造」機能主義といった使い方をされることがある。しかし、レヴィ=ストロースの「構造」は、そういった「構造」とは違うものを指しているらしいとはぼんやりとわかるのだけれども、ある授業でその二つの違いを説明せよと言われてうまく答えられなかった記憶がある。
今回「野生の思考」を読んで、レヴィ=ストロースの「構造」についていくつか気がついたことがあるのでそれを書いてみたい。
「野生の思考」のなかで、オーストラリアの諸文化の技術・経済的、社会的宗教的構造は、全体として相互に変換できる大きな変換群になっていると述べている。このなかの「変換群」という言葉が、「構造」について理解するためのキーワードなのだと思う。「変換群」について Wikipedia (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A4_%28%E6%95%B0%E5%AD%A6%29) で検索してみたけれど、数学のある種の概念らしいということ以上、よく理解できない。それでも、おぼろげながらわかったことを書いてみたい。本当は、数学が得意な人にぜひ解説してもらいたい。結城さん(id:hyuki)とか。
変換群とは、特定の性質を共有した集合の集まりのことらしい。ある変換群に属する二つの集合の要素は、特定のルールに基づく変換を行った関係にある。つまり、同じ変換群に属する集合Aと集合Bの間には、集合Aに属する要素aを変換した要素bは必ず集合Bに属するといった関係にある。
「変換」という概念の正確な意味もはっきりとはわからないけれど、関数をイメージすればいいように思う(正確には、関数は変換のなかの一つのパターンということだと思う)。レヴィ=ストロースの「構造」とは、変換群の変換のルール、関数を指しているというのが、現時点での私の理解である。
ある文化Aは、文化の要素(a1, a2, a3, …)の集合をなしている。また、隣接している文化Bは、(b1, b2, b3 …)という集合をなしている。ある文化の要素(a1, a2, a3 …)を研究しても、文化が形成している集合の「構造」は理解できない。また、個別の文化の要素a1とb1を取り出して比較しても、それぞれの要素の意味を見いだすことはできない。レヴィ=ストロースは、文化Aと文化Bの要素の集合Aと集合Bがどのような関係、すなわちどのような変換のルール、関数に基づいた変換群をなしているのかかを探求しようとしている。
例えば、神話を分析する時に、個々の神話を研究してその意味を考えたり、いくつかの神話をばらばらの要素に分解して要素間の類似性などを考えるのではなく、いくつかの神話を変換群ととらえて、神話間の変換関係、すなわち「構造」を取り出そうとする。神話は、一見荒唐無稽な話が多くて理解できないことが多いけれど、神話群の「構造」のレベルでは理解できるというのである。
また、レヴィ=ストロースは、文化間の変換群だけではなく、文化内にも変換群があると考えている。その例として、トーテムをあげている。トーテムとは、部族などと特定の野生の動物や植物などを関連づける体系のことである。例えば、部族Aは鷲の部族であり、部族Bはトカゲの部族であるといった体系である。レヴィ=ストロースは、部族Aが鷲であるということを取り出しても意味がないと考える。野生の動物や植物がなしている集合と部族がなしている集合が、ある変換のルールに従った変換群となっており、その変換のルール「構造」に着目する。
一見「未開」の文化は、近代の西洋文化と大きく隔たっているように見えるけれど、この「構造」というレベルに着目すると共通しているというのがレヴィ=ストロースの主張である。
近代の科学的思考では、ある集合Aをなしている対象を理解しようとするときには、その対象に対応する集合Bを仮説として作り、それらの集合が変換群をなしているか、また、どのような変換のルールに基づいているかを検証をする。一方、「未開」の文化の「野生の思考」では、ある集合Aを理解するときには、一からその集合に対応する集合Bを仮説としてつくるのではなく、すでに存在する集合Bをあてはめる。
例えば、近代において組織を作る時、人をあるルールに基づいて体系的にグルーピングして名前をつける。組織の体系とその組織の名称の体系は、人為的に作ったルールに基づく変換群となるようにする。一方、「未開」の社会においては、部族は、トーテムのように自然の動植物の関係になぞらえて組織される。部族の集合を動植物の集合の変換群として理解するのである。人為的なルールに基づいて一から変換群をつくりあげる科学的思考に対して、すでにある集合を用いて変換群を作る「野生の思考」を、レヴィ=ストロースは手近な材料を使って工夫をする器用仕事「ブリコラージュ」と呼んでいる。
科学的思考も「野生の思考」も、使う素材は違っていても、集合間にルールを設定して変換群を構成するという意味では同じである、とレヴィ=ストロースはいいたいのだと思う(たぶん…)。
マリノフスキーに始まる文化人類学の主流は、一つの文化を集中的に調査して、その文化のなかの構成要素がどのような関係にあるかを明らかにすることを目指している。その文化内の構成要素の関係を「社会構造」と呼んでいる。それに比べると、レヴィ=ストロース構造主義は視点が大きく異なっており、「構造」の意味も「社会構造」とは違っている。レヴィ=ストロースが、「構造」というまぎらわしい用語ではなく、「変換」とか「規則」といった用語を使ってくれればもう少し理解しやすかったのかもしれない。
とりあえず、「野生の思考」を読み終わったところでの私自身の「構造主義」の理解はこんなところである。ほんとうにレヴィ=ストロースの主張したかったことと合致しているか、自信がないけれども。
しかし、構造主義を理解するためには、解説書を読むよりも「野生の思考」を読んでみる方がいいと思う。フーコーやその他のいわゆる「ポスト構造主義」の著作に比べると、少なくとも文章は理解しやすいし、レヴィ=ストロースの主張が理解できなくても、さまざまな文化の事例があげられていてそれを読んでいるだけでも楽しい。

野生の思考

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