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宗教に入信する信者の心理

雑感 読書

前回のエントリー(「鏡としてのオウム真理教」(id:yagian:20120527:1338081114))で宗教について書いた。
しかし、私自身は明確な信仰、信心は持っていないので、正直に言えば宗教の信者の心理についてはよくわからない。生まれ育った家族やコミュニティの文化、社会に宗教が組み込まれていて、自然とある宗教に入信するというケースはまだ理解しやすいが(そうであっても、自分の意志を持つようになったり、他の宗教、宗派と接触するようになると葛藤が生じることもあるのだろうけれど)、自らの意志で特定の宗教、宗派に入信することは、理屈ではわかるけれど、心情も含めた深い理解までは至っていないと思う。
何冊か著作を読んだことがある社会思想史家の仲正昌樹「Nの肖像 統一教会で過ごした日々の記憶」を読んだ。私が読んだことのあった彼の本は、純粋に思想史の本で、統一教会や宗教とは特に関係のないものである。仲正昌樹は、東京大学入学直後に「原理研究会原理研)」に勧誘され統一教会に入信し、11年間信者として過ごして、大学院進学とほぼ同時期に脱会している。現在は統一教会とは関係なく、また、統一教会に対しても特に否定もしないが、肯定もしないという態度を取っているようだ。
仲正昌樹は、彼自身の経験も踏まえ、宗教について次のように書いている。

…「宗教とは何か」を…抽象的に定義すれば、形而上学的な信念を中心とした精神的な共同性だといえる。もっと簡単にいえば、「精神的な絆」を求める人たちの共同体ということだ。
 多くの人は、心の奥底で、「自分の人生にはどういう意味(目的)があるのか」「自分はどういうふうに生きていったらいいのか」といったことを、誰かに教えてもらいたいという欲求を持っているのではないだろうか。誰かに、自分の人生の意味を教えてもらうことによって自分の存在にまつわる不安を解消しようとしているのではないだろうか。
 そして、その”誰か”は、私と同じただの生身の人間や、私と同じように自分の生の意味を見いだせないで迷っている人間ではなく、神のように、すべてを見とおしている超越的・絶対的な存在であるほうがいい。

 一方で、自分にとっての「答え」と一致していると当人が確信し、その共同体を構成するほかの人と同じように振る舞うことによってその確信を深めていこうと決めたとき、その人は、ある特定の宗教を信じている人間であると、自他共に認められることになるのだろう。
(pp201-202)

おおむね納得できる説明ではあるが、疑問もある。
まず、「形而上学的な信念」と書いているが、宗教を構成するには何らかの「信念」が共有されればよく、その「信念」が特に「形而上学的」である必要はないように思える。さまざまな宗教の教義は究極的には同じことを違う形で表現しているとする立場もあるけれど、現実には、宗教の教義は多様で、その宗教の外から見るとかなり「奇妙」に見える教義を信仰していることも多い。おそらく、「信念」の内容そのものが問題であるというよりは、一定の「答え」を提供さえしていればよいのだろう。
また、私は、仲正昌樹のように特定の宗教に入信をしていないのはなぜだろうか。私も家庭、親族、学校、会社、地域社会、ネット上のコミュニティなど与えられたり、また、自分で選択したりしたさまざまな共同体に属している。その共同体のなかに「宗教共同体」はたまたま含まれていなかったけれど、宗教を代替する機能を持つ共同体、つまり「生きる意味」について「答え」を与えてくれる共同体があった、ということだろうか。確かに、私の属している共同体はある程度生活の方向性を私に指し示してくれている。しかし、それは「答え」というほど明確なものではない。
私は倫理観に乏しいけれど、倫理観が強い人は善行が善果を、悪行が悪果をもたらさないこの現世に強い疑問を感じ、「形而上学的」な答えを求めるかもしれない。しかし、それはあくまでも「形而上学的」なものでもよいはずで、「教団」という共同体を形成し、もしくは、それに加入する必要はないように思える。実際、「人生の意味」を見失った時、さまざまな本を読んで自分なりの「人生哲学」を作り上げている人は多いと思う。それが、「宗教的な信念」ほど強力なものでなくても、生きていくためであればその程度のものでもなんとかなる。
このあたりの仲正昌樹の冷静な記述を見ていると、このような考え方をする資質があったからこそ、統一教会のなかで昇進することがなく、また、脱会することができた、脱会することになったのだと理解できる。

 しかしながら、新宗教にいってしまった私だからこそ、「絆」をあまりに強調しすぎると、「危い」側面もあると思うのである。
 「絆=共同性」というのは、本来、家庭や学校、職場、地域、そしてサークルなど、さまざまな生活の場で、それぞれの場の機能に応じて、部分的に、分散化されたかたちで実現されるべきものだと私は考えている。
 私がいうのも変だが、特定の思想や哲学、教理を共有する閉鎖された集団に閉じこもって、”純粋な絆”や”真の絆”を追求するのは、あまり健全なことではない。閉鎖集団のなかで”純粋な絆”を求めつづけると、どんどんまわりの世界から遊離して、その集団のなかでしか通用しえない、特異な教理に帰依しようとする傾向が強まっていく。
 特異な教理でも、外部の人に危害を加えないものであれば、他人がとやかくいうことはないが、人畜無害の教理ばかりとは限らない…
 現在の私は、市民社会の常識真っ向から対立するような、先鋭化された教義を持つ宗教、あるいは思想系の集団に、ある人がのめりこんでいくのは、あまり好ましいことではないと思っている。だが、同時に、それを実力で阻止する権利は誰にもないと思っている。

 さらにいえば、「ひとつの特異な教義を持つ宗教」に自覚的にコミット…しているのであれば、…「ほんとうに変わった宗教に入ってしまったなあ。世間の人は私たちのことをおかしい奴だと思っているだろうなあ」と、自分(たち)のことを第三者的な視点から見ることもあるからである。
 そういう第三者的な視点を持って入れば、その教団からあまりにも無茶なことを指示されたとき、その是非について考えることができる。
 問題なのは、まわりから第三者的に見ると、ひどく奇妙な教えを信奉しているの、自分たちではぜんぜんそう思っておらず、むしろ”宗教などとは無縁な健全な常識人”の集いだと思っているような場合である。
(pp224-226)

最後のパラグラフは、先日NHKスペシャルの長時間インタビューに答えたというオウム真理教の幹部のオウム真理教への認識にきわめて近いと思う。
仲正昌樹の指摘はもっともなのだが、そもそもカルト宗教の危険性に自覚できたり、第三者的な視点を持てる人は、本質的にはその宗教に所属することを必要としていないのだろうと思う。仲正昌樹はそれゆえ統一教会を脱会したが、ふつう、カルト宗教に入信する人はそのような第三者的な視点は持ち得ないだろう。だから、実践的な処方箋としてはあまり意味があるとは思えない。

 こうしたことは、それほど特別なことではないと思う。宗教団体ではなくて、会社や学校、そして政党などについても、外部の人から理不尽なまでに強い批判を受けることで、かえって内部の人の忠誠心が高まるというのは、よくあることではないだろうか。統一教会の場合、そうした作用/反作用が激しいので、目立ってしまうのである。
(pp213-214)

しかし、特異な信念を共有し、第三者的な視点から見ることができなくなるのは、宗教団体に限らないだろう。日本の「カイシャ」(いわゆる「大企業」)は、終身雇用を前提としていたし、また、従業員の多様性が乏しい。第三者的な視点を失って、暴走してしまうこともあるのではないだろうか。
東京電力勝俣恒久会長の国会事故調における証言はそれを示していると思う。

安全問題については最大限努力してきた所存であります。そうした中で、安全というのは保たれているということで、地元の皆様にも安全ですよとか安心ですよと言ってきたこと、まさに我々自身がそう思っていたということがあります。
(国会東京電力福島発電所事故調査委委員会第12回委員会議事録①http://www.naiic.jp/wp-content/uploads/2012/05/vol12-1.pdf

おそらく、勝俣会長は聡明であり、また、個人的な権力欲(多少はそれもあるかもしれないけれど)のために事故後も東京電力会長の座にとどまっていたわけではないと思うけれど、「まさに我々自身がそう思っていた」というところに、東京電力の「宗教性」を感じる。
冷静に考えれば、安全性はコストとのトレードオフの関係にあるから、「最大限努力」とか「完全な安全」ということは原理的にありえない。おそらくは勝俣会長も個人的には理屈としてはそうだということは認めると思う。しかし、東京電力としては原子力発電について対外的に「安全」だと主張し、そうすることによって社員自身もそのように信じるようになってしまっていたのだと思う。もしかしたら、東京電力では、批判が集中することによって作用/反作用が激しく起きているのかもしれない。

Nの肖像 ― 統一教会で過ごした日々の記憶

Nの肖像 ― 統一教会で過ごした日々の記憶