それで少しでもやさしうすると、女はついて来る気になるんじゃろう。

佐野真一「旅する巨人 宮本常一渋沢敬三」(文藝春秋)(ISBN:4163523103)を読んだ。
佐野真一は、かつて宮本常一がフィールドワークをした土地を訪ね、また、宮本常一のアサ子未亡人から未公開の書簡を借り、いくつかの新しい事実を掘り出している。そのなかで、私がいちばん驚いたのは、「土佐源氏」をめぐる話であった。
宮本常一「忘れられた日本人」(岩波文庫)(ISBN:400331641X)に収録されている「土佐源氏」は、高知県檮原村の橋の下に小屋をかけているかつては博労であった盲目の乞食の女性遍歴を聞き書きしたもの、ということになっている。
佐野真一は、檮原村を訪ね「土佐源氏」の孫娘に会って話を聞いている。

 槌造(引用者駐:「土佐源氏」の本名)はすでに緑内障失明しており、足も立たなくなっていた。商売の方は女房のワサにまかせきりにし、水車小屋と壁一枚へだてた隠居の間に一日じゅうすわり、たずねてくる者には誰彼なく、広い世間を渡ってきた体験談や、色ざんげの話をおもしろおかしくするのが槌造の何よりの楽しみとなっていた。話は無類にうまく、本当の話しもあれば作り話もあった。
・・・
「それよりもジイさんの格好自体が乞食と間違えられても不思議じゃありませんでした。裸に黒の厚子をはおり、荒縄を帯がわりにして、ふんどし一丁で座っている。髪は一度も散髪せずにのびほうだいですから、宮本さんが乞食と間違えるのも無理はなかったと思います」
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「ジイさんの話芸はそりゃ舌を巻くほどうまかった。東京から話を聞きにきたお客さんをだますくらいは序の口だった。ジイさんは一世一代の乞食話を、腕によりをかけ、虚実とりまぜながら宮本さんにしたというのが”土佐源氏”の偽らざる真相でしょう」

確かに、「土佐源氏」は、宮本常一のほかの話に比べて、きれいにまとまっている。だから、宮本常一の文飾がかなりはいっているのではないかと想像はしていた。しかし、話者自身によってすでに「いい話」に仕立て上げられていたということには驚いた。佐野真一は、「土佐源氏」が乞食ではなく、虚実とりまぜた話であることを宮本常一が承知した上で、この話を書いていると推測している。

 このころの宮本の心理状態を忖度すれば、私の気持ちは後者の見方(引用者駐:宮本は嘘に気がつきながら書いているという見方)に傾く。宮本のその頃の心理状態は、妻のアサ子とやりとりした往復書簡の中に、如実に現れている。
 アサ子がこの頃宮本にあてた手紙には、
「長い間おせわになりました」「進んで仕事の協力できぬ才能のなさにお詫びしてお別れの詞といたします」「私はもう貴男の何をも信じまいとしています」
 などといった、ただならぬ文言がちりばめられ、ある特定の女性の名前をあげ、
「××さんを得られたことによって全ては補われましょう」「力の足りないお前に出来ないところをよくできる人がおぎなうのだからむしろ喜べと仰有るのでしょう」「お二人で召上るお弁当は私は作る必要はない!」とまで言い切っている。
 宮本は生来のやさしさ、旅の身空の寂寥感といつ再発するかもしれない結核への恐怖心とがないまぜとなった名状しがたい感情から戦争未亡人や、孤児同然と育った娘たちに深い思いをよせながら旅を続けていた。宮本の周囲にこの当時、アシスタントを兼ねた、そうした女性がいたことは事実だった。
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 宮本は”土佐源氏”が語る話のなかに、妻を裏切り、別の女性と旅をつづける自分の姿を重ねあわせたはずである。・・・宮本自身が全国を放浪する”土佐源氏”だった。そして「源氏物語」になぞられれば、いつ帰るあてもない夫を畑仕事をしながら氏まで待ち続けるアサ子は、片田舎でひっそりと暮らす”葵上”にもたとえることができた。

宮本常一が、「土佐源氏」に自分を投影しているという佐野真一の説には同意できる。宮本常一の作品を読むと、「土佐源氏」に限らず、随所に宮本常一自身が投影されているところを見つけることができる。
宮本常一は、旅をする時には、富山の薬売りに間違えられるような粗末な格好をしていたという。しかし、「旅する巨人」の口絵の写真を見ると、服は質素だが、宮本常一はじつにいい男である。そして、とろけるような笑顔を浮かべている。女性にはとびきりやさしかったという。これでもてないはずがない。
土佐源氏」のなかに次のようなせりふがある。

・・・男がみな女を粗末にするんじゃろうのう。それで少しでもやさしうすると、女はついて来る気になるんじゃろう。

これは、宮本常一自身のせりふでもあるに違いない。
「忘れられた日本人」のなかの「世間師(一)」の冒頭部分などは、宮本常一の自己紹介のように読むこともできる。

 日本の村々をあるいて見ると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験をもった者が多い。村人たちはあれは世間師だといっている。・・・村里生活者は個性的でなかったというけれども、今日のように口では論理的に自我を云々しつつ、私生活や私行の上ではむしろ類型的なものがつよく見られるのに比して、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が年寄りたちの中に多い。これを今日の人々は頑固だと言って片付けている。

宮本常一は、正規の大学教育は受けていないけれども、かなりの濫読家であったようだ。「旅する巨人」に引用されている若い頃の書簡を読むと、「忘れられた日本人」のような平易な文章とは異なり、教養主義的な言葉がちりばめられている。
彼は、周防大島の百姓を自称している。確かに、野良仕事もしていたけれども、ほんとうの百姓であればあれだけ旅を続ける必要はない。百姓を自称する裏には、百姓であることを実体験として知っているということに加え、自分はインテリではないということを示したいのだと思う。しかし、実際には、宮本常一はインテリである。
百姓たらんとし、インテリであることを隠すために、公表される文章のなかでは「口で論理的に自我を云々」することを封印し、ほかのインテリからは「頑固だと言って片付け」られてもよいと考えているように見える。
このような身の処し方をするに至るには、さまざまな事情と思いがあったに違いない。宮本常一は、知れば知るほど一筋縄ではいかない複雑な人物である。彼の深く暗い情熱、心の闇に心が惹かれる。
彼の著作集を少しずつひもといて行きたいと思う。