本を薦める

旅行のお供の本として、保坂和志「季節の記憶」(中公文庫)(ISBN:4122034973)を持ってきた。今日はひとりだから、活字中毒者としては手元に本がないと禁断症状が不安になる。ひとりで歩き回るときは、誰かにあわせる必要がないから、自分の行きたいところをどんどん回ることになる。うっかりすると、何時間も休みなしで歩き詰めてしまうことになる。だから、ちょっとお店に入ってお茶でも飲んで休むことになる。そんな時ぐらいは、ゆっくりとぼーっとすればよいのだけれども、活字中毒者としては、何もなくぼーっとすることができなくなる。そんなとき、鞄から本がすぐに取り出せると安心できる。
しばらく前の日記(id:yagian:20040926)で、車谷長吉赤目四十八瀧心中未遂」(文庫)(ISBN:4163174206)がおもしろかったと書いた。保坂和志の小説は、いっけん地味で、ストーリーもほとんどないから、おもしろさという意味では車谷長吉には劣るのだけれども、癖になるようなところがあり、続けて彼の小説を読みたくなる。
村上春樹の小説を続けざまに読むと、彼の文体が伝染するような気になるときがある。もちろん、村上春樹のように書けるわけではないのであるが。保坂和志を続けて読んでいると、彼の思考様式に感染するような気がする。保坂和志の小説は、日常生活をたんたんと描写するように見えて、いや、実際にたんたんと描写しているのだけれども、そのことによって保坂和志の世界観が伝わってくる。その世界観は、そうとう強固なものだから、結果として、彼の世界観が読者の頭のなかに植え付けられてしまう。すくなくとも、自分の頭の中には、しっかりと植え付けられている。
「季節の記憶」では、妻に家を出て行かれた主人公が、鎌倉にひとり息子と住んでいる。その主人公と息子の対話を読んでいると、結城さん(id:hyuki)が日記(http://www.hyuki.com/diary/)にたまに書いている彼と息子の対話(例えばhttp://www.hyuki.com/diary/200407#i20040704170000)に感じが似ているように思う。「季節の記憶」から親子の会話を引用してみる。

「時間って、どういうの?」
 と言った。
 そういう疑問をどこで仕入れるのかわからないが、息子は月に二、三回こういう質問をする。
「クイちゃん、種は知ってるよね」
 息子は小さく頷いた。息子は本当は圭太というのだが、自分の名前を呼びはじめたときから何故か「クイちゃん」と言ったから、今ではどこでもそう呼ばれている。
「種を埋めると小さな葉っぱと細いヒゲみたいな根っこが生えてきただろ?前にかいわれ大根の種から葉っぱと根っこが出てくるの、クイちゃんも見たよね」
 息子はきちんと僕をみながら頷いた。息子ははじめのうちは熱心に聴いているが突然飽きるので、こっちとしてはそれまでの時間が勝負なのだ。早く飽きさせてどこかに追いやりたいのではない。息子がこっちの話に飽きるまでの限られた時間にできるだけイメージの鮮明なものを伝えたいのだ。それで僕は椅子から降りて床にぺたんと息子と向かい合わせに坐って、「大きな木だって、はじめは小さな一つの種だったんだ」と言った。
「ほら、美紗ちゃんの家に大きなきがあるだろ?」
「この前、登った−」
「うん、そうだった。美紗ちゃんと登ったよな。
 あの木だって、はじめはこーんな小さな種だったんだ」
 息子の圭太はちょっとバカみたいに口を開けたまま頷いた。何かに強い興味が出てくると口を開けてしまうのは父親と同じ癖だ。
「時間っていうのもね、はじめは小さな種だったんだ。
 小さな小さな種だったのが、だんだんだんだん大きくなって、もっともっと大きくなって、気がつくとものすごく大きくなってて、その中にクイちゃんもパパも美紗ちゃんもおばあちゃんも、みーんな入っちゃってて−」
ポルトガルは?」
ポルトガル?うん、入っちゃう」
ニューカレドニアも入っちゃう?」
「入っちゃう」

保坂和志の小説は細部が命で要約すると意味が無くなってしまうので、ついつい引用が長くなってしまう。
それはさておき、このあたりの文章を読んでいて、結城さんに「季節の記憶」を読んでみたらという推薦のメールを書こうかと思った。しかし、よく考えてみると、自分は保坂和志と結城さんの親子の対話に似ているところがあると思っているけれど、結城さんがそのように感じるかどうかはわからない。また、仮によく似ているとしても、よく似ている文章を読みたいと思うかどうか、読んで楽しめるかどうかもわからない。それに、わざわざメールを書いて推薦してしまい、読まなければならないという心理的な負担にでもなってしまったら申し訳ないとも思う。結局は、ここのウェブログのなかで、無断で結城さんの名前を引き合いに出し、小説の長めの引用をして、もし、結城さんが興味をもったら読んでもらえればよいかな、という程度にとどめることにした。
それにしても、人に本を薦めるということはほんとうに難しいと思う。自分がおもしろいと思った本、読む価値があったと思った本をリストアップするのは簡単である。また、そう思った理由も、説明できなくもない。しかし、薦める相手がその本を読んでどのように感じるのか、それはなかなか見当がつかない。
大方の人が楽しめる本というものもある。漱石であれば「坊ちゃん」(新潮文庫)(ISBN:410101003X)は誰でも楽しく読めるだろうし、楽しいだけにとどまらない深みもある。「こころ」(新潮文庫)(ISBN:4101010137)も、多少小説を読み慣れていれば、おもしろく読めるだろう。しかし、これが鴎外になると難しくなる。「渋江抽斎」(岩波文庫)(ISBN:4003100581)を推薦したいと思っても、それなりの準備がなければ、興味深く読むというわけにはいかないだろう。といっても、「雁」(岩波文庫)(ISBN:4003100557)を読んだとしても、鴎外の真髄に触れたことにはならないようにも思う。
車谷長吉は、おそらく、小説になれている人であれば、かなりの確率でおもしろいと思うだろう。そういう意味では推薦しやすい。しかし、保坂和志になると、やや自信がなくなる。はたして薦めてよいものか、くだくだと考えこんでしまうことになる。
自分が、誰かから本を薦めてもらうのはどうだろうか。これはきらいではない。食わず嫌いだった本を読む機会になる。自分から積極的に手にとることがない本が、思いのほかおもしろかったということもある。仮に、自分の趣味にあわない本であったとしても、適当につっこみを入れながら楽しんで読むこともできる。もっとも、つっこみを入れながら読んだ時は、推薦してくれた人にその本の感想を伝えるときに困るけれど。