らつする

高島俊男お言葉ですが…」(文春文庫 ISBN:4167598027)に、「拉致」という言葉について書かれた一節があった。

 「拉致」という語は、古い漢籍にもなく、現代の漢語(いわゆる中国語)にもないから、和製であることはまちがいない。問題は、いつできたことばか、ということである。
……
 ふしぎなのは「拉」という日本ではほとんど用のない字をもちいていることだ。またそれを「ラ」と読んでいることも気になる。……
 実は「拉」は現代漢語では最も基本的な単語の一つである。……
 支那でこの語が文献(すべて口語文献)に見えはじめるのはおおむね清代中期すなわち十八世紀ごろ以後である。いっぽうわが国の漢字の用法はほぼ平安時代にかたまっているから、この字に用がないのは当然である。ただし明治の文人が時々「…を拉(らつ)し来りて」などと用いているのは、近代の俗語小説などでおぼえたものだろう。

大学で第二外国語として中国語を選択していたのだが、現代中国語では日本語では使わない漢字がいろいろ使われているのを不思議に思っていたが、これでその謎が解けた。日本は漢字圏のなかでは周辺地域ということになるのであろうが、その地域に古い漢字の用法が残されているということは、周辺地域の方言に古い用法が残されているとする柳田国男の方言周圏論*1に似た現象で興味深い。現代日本語では、もっぱら英語から言葉が輸入されているけれど、いずれは英語起源の言葉の用法が固定されて、古い英語が日本語に残されるようになるのかもしれない。
明治の小説を読んでいると、たしかに「拉(らつ)して」という言葉を目にしたような記憶がある。青空文庫森鴎外の小説を検索すると、「大塩平八郎」(「山椒大夫高瀬舟」(ちくま文庫 ISBN:4480026257)所収)のなかに用例が見つかった。きちんと探せば、もっとたくさん用例が見つかるだろう。(後記:辰さんのコメントにあるように、青空文庫トップページの Google 検索窓で検索すると、さまざまな用例が見つかりました。)

…己が陰謀を推し進めたのではなくて、陰謀が己を拉して走ったのだと云っても好い。一体この終局はどうなり行くのだろう。平八郎はこう思い続けた。

江戸時代、漢語を訓読せずに直接外国語として読むことを主張した荻生徂徠の影響で、白話小説と呼ばれる中国の口語体の小説が日本で読まれるようになった。鴎外は、その教養の伝統を受け継いでいる。前田愛「近代読者の成立」(岩波現代文庫 ISBN:4006020325)のなかに、鴎外が読んだ中国小説を調査した「鴎外の中国小説趣味」という論文があるが、これによれば、鴎外の中国小説の蔵書は、同時代の「アマチュアとしては相当の水準に達していた」という。清代の代表的な白話小説紅楼夢」「聊斎志異」は、鴎外は当然読んでいたはずだ。もっとも、高島俊男がいうように、鴎外が「拉して」という言葉を使っているのは、鴎外自身が白話小説から直接輸入したのか、江戸時代に白話小説から日本語に輸入された言葉を使っているのかは疑問だと思う。
夏目漱石は「文学論序」(「漱石文芸論集」(岩波文庫 ISBN:4003101006)所収)に、漱石と中国の文学との関係について語った有名な一節がある。

……余は少時好んで漢籍を学びたり。これを学ぶ事短かきにもかかはらず、文学はかくの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふ英文学もまたかくの如きものなるべし、かくの如きものならば生涯を挙げてこれを学ぶも、あながち悔ゆることなかるべしと。……
……
翻つて思ふに余は漢籍においてさほど根底ある学力あるにあらず、しかも余は充分これを味ひ得るものと自信す。余が英語における知識は無論深しといふべからざるも、漢籍におけるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかくまで岐かるるは両者の性質のそれほどに異なるがためならずんばあらず、換言すれば漢学にいはゆる文学と英語にいはゆる文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざるべからず。

高島俊男「キライなことば勢揃い お言葉ですが…⑤」(文春文庫 ISBN:416759806)に、「文学」ということばについて次のように書かれている。

ずっとむかしから明治のなかばごろまで、「文学」というのはだいたい学問の意味だった。「文学」といったほうが、高尚で優雅な感じがする。無論西洋式の学問はふくまない。書物を相手にする学問が主である。
 「文学」という語は非常に古い。論語で、孔門の十哲を得意方面によって「徳行」「言語」(弁舌)「政事」「文学」(学問)の四グループにわけ、「文学は子游と子夏」と言っている。わが国での用法も無論これをうけている。

「漢学にいはゆる文学」の「文学」が上記の意味での文学、「英語にいはゆる文学」の「文学」がliteratureの意味での文学だとしたら、この二つはまったくかけ離れていて、「到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のもの」である。もし、漱石の文学のイメージの源になったのが、左国史漢ではなく、馬琴や西鶴源氏物語聊斎志異だったら、ここまでの断絶はなかったのではないだろうか。
昨日引用した呉智英犬儒派だもの」(双葉文庫 ISBN:4575713104)の教養に関する文章(id:yagian:20060503:1146652095)にこんな続きがある。

 コンピューター工学は早晩飽和点に達し、新たな着想が求められるようになるであろう。そんな時、古典の教養を持つ者が勝者となる。湯川秀樹が中間子理論を着想した背景には、『荘子』を愛読した教養があることはよく知られている。難病治療には、漢方薬を含む東洋医学の視点が導入されつつある。これには『傷寒論』を読み解き、その基盤にある東洋の人間観、生命観を知らなければならない。

呉智英の指摘には、私はやや不満足である。新しい着想が求められるとき、古典の教養がヒントになるということだけではないと思う。鴎外や漱石が、深い意味での文学の革新ができたのは、単に古典の教養を身につけていたからではなく、複数の伝統の教養に親しみ、伝統の相対化ができたからだ。
漱石の「文学」の概念は、左国史漢から英文学まで、きわめて広い幅を持っている。初期の漱石は、短期間で非常に多様なスタイルの小説を書いているが、これは漱石の文学の概念の広さと関係している。鴎外も、自然主義が主流だった文壇から超然として、誰も書いたことのないようなスタイルの実験的な小説を書くことができたのは、「文学」に対する広い教養があり、自然主義も文学のごく一つの部分を占めているにすぎないことをよく理解していたからだ。
ふたたび「お言葉ですが…」から引用する。

 今の自分のありよう・考え方だけを、人類の唯一のそれと思っている人を「無知」と言う。「以前はこうではなかったのかもしれない」「他の所ではこうではないのかもしれない」と考えられる人は(たとえ具体的にどうであるかを知らなくても)知性のある人である。

鴎外と漱石は、幅広い教養に支えられた「知性のある人」だ。