夏目漱石「門」を読む:私の暗い時代と「文学」の癒やし

「文学」が足りない

最近、社会科学系の本だったり、会社での研修講師の準備のための実用書だったり、さもなければ語学学習のためのテキストだったり、そんな本ばかり(村上春樹騎士団長殺し」は例外だけど)を読んでいて、なんだか「文学」が足りないなぁと思い、夏目漱石「門」を手に取った。

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 
門 (岩波文庫)

門 (岩波文庫)

 

 漱石の現代性

 夏目漱石の小説を読んでいると、特に「それから」以降の作品では、漱石が昔の人だという感じがしない。自分と同時代の人について描いている、という印象がしてしまう。

特に、遺作の「明暗」の津田とお延のカップルなどは、現代だったらこんな夫婦はザラにいそうだなと思う。一方、漱石の同時代の読者は、このカップルに対してどこまで共感できたのだろうかと不思議な感じがする。夫婦の普遍的なあり様を描いているからこそ現代の私も共感できるような気もするが、しかし、漱石の同時代の小説を読んでも津田とお延のようなカップルはでてこないから、漱石は現代を見通してこのような夫婦を書いたのかなとも思う。

漱石は当時の最先端のインテリだったから、周囲の人の理解を得られない悩み、大きく言えば西洋と東洋の相克による苦しみ(「それから」の代助が「もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。」と言っているように)、を抱えていた。彼の時代から100年経って、ようやく私のような人間も漱石と似たような悩みを抱くような時代になった。だから、今、漱石の小説を読むと、なんだか昔の人という感じがしないのかもしれない。

「門」は、サラリーマン(作中の言葉で言えば「腰弁」)の生活を描いている。永遠に続くようにも思えるサラリーマン生活の閉塞感が実にうまく表現されていて、とてもひとごととは思えない。漱石の時代、まだまだ「サラリーマン=腰弁」は社会のなかで少数派で、おそらくは恵まれた階層だったのではないかと思うが、現代は宗助のような人物がごくふつうになった。

明暗 (岩波文庫)

明暗 (岩波文庫)

 

私の暗い時代と「文学」の癒やし

世間的には漱石は「文豪」ということになっているけれど、私は彼をもっと親しい存在だと勝手に思っている。彼の小説を読むと、自分のことが描かれているような気がするのである。「門」は、彼の小説のなかではあまり名作と言われることがないけれど、私にとってはとても愛着がある小説だ。「腰弁」の閉塞感に共感できることもあるし、小説の舞台がいま自分が住んでいる地域である、という理由もある。

そんなわけで、久しぶりに「門」を手にとって読み始めた。すると、ずいぶん暗い小説だな、宗助の閉塞感もただごとではないなと思った。考えてみれば、私が「門」を好んで読んでいたのは、私自身が閉塞し暗い時代だった。そんな時代に、暗くて閉塞している「門」を読んで共感をして、ある種の癒やしを得ていたのだと思う。

最近あまり「文学」を摂取していないのは、「文学」からの癒やしを必要としていないからなんだろうと思う。冬から春になり、閉塞したトンネルから抜けた。しかし、また冬はやってくる。そんなとき、また、「門」からの癒やしが必要になるのだろうと思う。