ロックの死

以前、ビートルズは過大評価されているのではないか、ビーチボーイズ(というかブライアン・ウィルソン)の方がずっとすごい、というような主旨のことを書いたことがあった。ブライアン・ウィルソンはいまでもいいと思っているけれど、最近、ビートルズを聴き直して、その良さにはまっている。
しばらく前、NHK−BSで、ビーチボーイズの未完のアルバム「スマイル」に関するドキュメンタリーを放送していた。ブライアン・ウィルソンは、ビートルズに触発されながら、ビーチボーイズというバンドのイメージから脱皮した作品を作り、発表しようとして、他のメンバー、レコード会社と激しい軋轢があって、そのプロジェクトを放棄してしまう。
それに比べると、ビートルズは、アイドル・バンドから、スムーズに(実際にはメンバー間には葛藤があったようだけれど)抜け出ているのが興味深い。ビートルズのアルバムを順番に聴いていると、ヘルプからラバー・ソウルの間で大きな飛躍があるように思う。ラバー・ソウルでは、アイドル・バンドから脱しただけではなく、ポールが突出していたビートルズがジョンとジョージも存在感を増している。ライナーノーツを読むと、ラバー・ソウルはライブ活動のあわただしいなか、短期間で作られ、セールスも好調だったという。ラバー・ソウルの後は、リボルバー、サージェント・ペパーズ、ホワイト・アルバム、アビー・ロード、レット・イット・ビーと、実験的かつポップな音楽を濃密に作り続けている。ビートルズを聴いていて、その変貌ぶりにはほんとうに驚かされる。確かに、リアルタイムでこれを聴いていたら、はまるのも納得できる。
しかし、今のロックには、こうした奇跡的とも思える幸せな時間はもう戻ってこないのだろうとも思う。
村上春樹の「やがて哀しき外国語」(講談社文庫 ISBN:4062634376)のなかで、ウィントン・マルサリスの演奏についてこのように書かれている。

 結局のところ、残念ながらジャズというのはだんだん、今という時代を生きるコンテンポラリーな音楽ではなくなってきたのだろうと思う。……
……
 でもこの演奏を聴いていて思ったのは、「結局のところ、マルサリスたちの世代にとっては、ジャズという音楽は一種の伝統芸能に近いものになっているんだろうな」ということだった。ウィントン・マルサリスはすばらしい才能を持った若者である。そして実に深く、真面目にジャズを研究している。ルイ・アームストロングから、キャット・アンダーソン、クリフォード・ブラウンマイルス・デイヴィスにいたるまで、みんなが彼にとっての偉大な英雄なのだ。そしてウィントンは彼らの響きを見事に現代に再現することができる。その音色は惚れ惚れするくらい美しいし、テクニックは小憎らしいくらい完璧である。でもそれだけではない。彼の演奏には愛情が、慈しみのようなものが溢れているのである。それはおそらく過ぎ去ったものへの、今消え行こうとしているものへの慈しみである。……

ブライアン・ウィルソンとスマイルをめぐるドキュメンタリーは、ワンダーミンツのダリアン・サハナジャという若者の献身的な助力で、スマイルを再現したコンサートに至るまでの過程を追っている。ダリアン・サハナジャは、村上春樹が描くウィントン・マルサリスとぴったりと重なる。ダリアン・サハナジャにとってブライアン・ウィルソンは英雄そのものであり、彼の音楽を実に深く、真面目に研究しているのである。
スマイルのコンサートの場面は、感動的である。ブライアン・ウィルソンは、未完成のまま残してきた仕事を完成することでトラウマを乗り越えることができる。ダリアン・サハナジャをはじめとするバンドのメンバー、そして、すべての観客には、ブライアン・ウィルソンに対して愛情に溢れている。しかし、その愛情は、やはり、「過ぎ去ったものへの、今消え行こうとしているものへの慈しみ」なのである。
ダリアン・サハナジャは、すばらしい才能を持った若者かもしれないけれど、ビートルズをやっつけてやろうとしてあがいていたブライアン・ウィルソンのように新しい音楽を創造することは決してないことは明らかである。
いまでは、エリック・クラプトンが神様のように扱われている。ブライアン・ウィルソンエリック・クラプトンが、紆余曲折ある人生を過ごしてきて、その晩年幸福を獲得するすることは喜ばしいことだと思う。しかし、彼らをぶっ飛ばしてやろうとだれも思わないということは、ロックというジャンルが今という時代を生きるコンテンポラリーな音楽でなくなり、一種の伝統芸能に近いものになったということなのだろう。
もう音楽に何かの思いを託そうと思わなくなった今、自分にとっては、伝統芸能としてのロック・ミュージックを心地よく心地よく聴くことができることも確かである。