象徴

以前、酒井順子「負け犬の遠吠え」(講談社 ISBN:4062121182)について感想を書いたこと(http://www.lares.dti.ne.jp/~ttakagi/diary/diary/0403.htm#20040314)がある。
「負け犬の遠吠え」のなかで、酒井順子は、「負け犬」たちが持っていた紀宮(当時独身)への共感について語っている。その共感に対する感想から今日のウェブログをはじめたい。

酒井順子サーヤへの思い入れは、読んでいて気持ちがいい。しかし、印象に残ったポイントはそこではない。
天皇一家は、実によく日本人を象徴していると思う。そのなかで、「紀宮」という存在はどのような意味を持っているのか、今ひとつよくわからないでいた。これを読み、彼女の存在意義がわかった。
父親は、名家の跡取り息子である。祖父は、激動の時代を生きぬいてきた人で、存在感が大きかったから、父親は頼りなく思われていた。跡を継いで十数年が過ぎ、最近では、ようやく当主らしく、しっかりしてきた。母親は財産家に生まれ、気位が高い。嫁ぎ先の家のしきたりにぶつかり苦労することも多かった。父親は、祖父と違い、優しいタイプである。家のしきたりと妻の間を取り持ってきた。
勉強はできず、オタクがかった次男は、要領が良く大学時代の同級生とあっさり結婚してしまった。まじめで、責任感が強く、人柄がよい長男は、やぼったいこともあって縁遠かった。しかし、最後には、おどろくような才媛と結婚することができた。次男の夫婦は子供に恵まれたが、長男夫婦はなかなか子供ができなかった。長男の妻は、高齢出産で娘を生むことができた。
父親はそれまでの家のしきたりである子育てから決別し、母親が自らの手で子育てすることにした。長男は、自分が積極的に子育てに関わるようになった。長男夫婦は二人で子供を連れて、公園デビューもした。その子は、物おじをせず、誰に対しても手を振ってくれる。
天皇一家の生活は、衆人環視の終わりのない連続ドラマ、いわば「トゥルーマン・ショー」のようなものである。「渡る世間は鬼ばかり」を上品にしたドラマと言えるかも知れない。皇室ファンの人たちは、上品でありながらも、自分たちと同じような悩みや問題を抱えているドラマ「天皇一家」を楽しんでいる。
ドラマ「天皇一家」のなかで、サーヤは、どのような役柄だったのか、どうもよくわかってなかった。しかし、「負け犬の遠吠え」を読み、彼女のドラマのなかでの位置がはっきりわかった。三十代未婚の娘という役柄だったのだ。「天皇一家」には、無駄な登場人物はいない。

天皇一家」のドラマには終わりがないから、この続きがある。
天皇一家の末娘は、家業を助けながら、大学時代で研究を生かした仕事に就いていたが、次男の同級生と結婚することになった。結婚するに際しては、それまでの仕事の成果をまとめて出版されることになった。結婚式は、シンプルで、フランクで、しかも、上品で趣味がよかった。両親も、公式の場で見せる表情ではなく、父親、母親としての顔を見せていた。
そして、現在は、父親と長男の間の断絶がドラマの主題となっている。長男の妻は、学歴、キャリアを積み重ねてきたが、結婚したあとは家業の手伝いをすることになった。結婚した時、長男夫妻は、家業のなかで妻が積み重ねてきたキャリアを生かすことができるのではないかと期待していたが、現実にはそれが裏切られてしまっている。妻は、自分の存在意義について深い悩みを抱えている。
父親は家業にきわめて熱心の取り組んでおり、それのことが自分の一家の存在意義だと考えている。長男にも、その家業に取り組むことを望んでいる。だから、家業に疑問を持っている長男とは分かり合えることができない。そのことが、長男の妻の孤独を深めることになっている。しかし、長男は、自分の意志で選んだ妻を守ることを決意し、それをはっきりと示している。
サーヤの趣味のいい結婚式には、「負け犬」の人たちに限らずあこがれをもった人は多かったのではないか。また、天皇夫妻の親としての表情に共感を持った人も多いだろう。
また、男女雇用均等法が施行された世代の女性では、雅子妃の現在の苦しみに共感する人も多く、雅子妃を守ろうとしている皇太子の決意に同感する人もいるだろう。
文藝春秋に連載されているときに断片的に読んでいて、興味をそそられていた論説が、福田和也美智子皇后と雅子妃」(文春新書 ISBN:416660466X)として出版された。天皇と皇太子の親子の断絶の問題について、ゴシップの報道とは一線を画し、かつ、なかなか深い洞察が含まれているように思う。この本の冒頭で、福田和也は次のように書いている。

私は皇太子と同じ年に生まれた。
……
もちろん上御一人になる殿下と、自分を同年、同世代だからと引き比べても仕方がない。それでもまた同じ年だからこそ解る、解るように思われることがないでもない。平成十六年五月十日の御洋行前の記者会見からの一連の出来事を見ていて、そう思った。ある種の同情と共感を禁じえなかった。

酒井順子サーヤへ共感していた。そして、福田和也は皇太子に共感している。
憲法では、天皇について次のように記述されている。

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

法学における「象徴」という言葉の解釈はよくわからない。また、この条文では「天皇」だけが言及されていて、天皇家について触れられているわけではない。しかし、「天皇は、日本国の象徴であり日本国統合の象徴」ということの意味は、天皇家の人々に対して国民が共感を寄せることができる存在であることではないかと思う。その共感があってこそ、天皇の地位を国民が認めることになるのだろうと思う。
皇室典範の改正についてさまざまな議論がある。私も、有識者会議の結論に基づいて現在の通常国会皇室典範の改正するのは拙速ではないかと感じている。それは、どのような形で決着するにせよ、国民が共感して納得することが重要だと考えているが、今の手続きだけでは、共感や納得が得られるとは思えないからだ。
けれども、単純に男子男系相続の伝統を守ればよいとは思わない。男子男系相続を主張する人は、日本の皇室の歴史について強調するけれど、虚心に皇室の歴史を振り返ってみれば、伝統を墨守したことではなく、それぞれの時代に適応することで皇統が守られてきたことが見て取れるのではないか。
明治、大正、昭和の前期と後期、平成と、それぞれの時代で天皇制は大きく変わっている。特に、敗戦の時、天皇制が廃止される可能性は十分あったし、それ以降も、天皇制への批判、反感も高かった時代が続いていた。現在の象徴天皇制も、現在の憲法ができあがったから自動的に成立したわけではなく、天皇を中心とした皇室が国民の象徴たらんとした活動に拠るところも大きいと思う。
美智子皇后と雅子妃」によれば、現在の天皇は、明治以降の天皇のなかでも宮中祭祀にきわめて熱心で精勤しており、国事行為と関連儀式などの公務も増加しており、さらに、非公式の「お茶」や食事という形でも面会、懇談も激増しており、七十歳を超える高齢としては非常な激務をこなしているという。そして、福田和也は、その理由を次のように推測している。

今上陛下ご夫妻の御精励ぶりを拝するたびに、畏れ多いことながら、私はお二人を急きたてている何ものかを感じざるを得ない。ご成婚直前の皇太子時代には「公の仕事と私生活をきっちり分けて結婚生活をするつもりだ」と語られ、十時−十八時だけ天皇として事務をとるとも伝えられてた今上に、天皇に即位するやこれほどの勤勉さを強いる、何ものかおを。それを、強い「不安」と言ってはいいすぎだろうか。
第二章に述べたように、小学校の高学年で敗戦を体験し、祖国の命運はもちろん、皇室の、父君たる天皇陛下の命運もまったくわからなかったという不安こそ、現天皇の出発点であると思う。

敗戦直後の天皇制の危機を、まさに当事者として体験した現在の天皇は、福田和也がいうように、天皇制がそれほど盤石ではない、という「不安」を抱えているのではないかと私も思う。
男子男系相続の伝統を守ることを主張する人たちは、伝統を守ることによって天皇の権威が維持されいるから、もし、その伝統が失われれば天皇の権威も失われ、国民からも正当性に疑問が持たれてしまうと考えているのだろう。
現在の天皇は、昭和天皇の男系の長子であり、宮中祭祀に熱心という意味で、伝統の継承に天皇の権威の源を求めているということは間違いない。しかし、現在の天皇は、単に伝統を守っているだけではなく、その他の公務、非公務にも、福田和也の言葉を借りれば、「過剰」なほど精勤している。それは、現在の天皇が、国民の総意に基づいた象徴天皇として存在するためには、伝統の継承だけでは不十分だという不安、危機感を感じているのではないだろうか。単純に男子男系相続を維持して伝統を守りさえすれば、国民から天皇としての共感、支持を得られると考えているわけではないだろう。
それでは、女系相続を認めるべきか。これは、日本の多くの人々が天皇家の女系相続に共感を持ち、正統的な天皇と考えるか、ということにかかっていると思う。
相続は、権利であるとともに、義務という側面もある。核家族化、少子化が進み、年老いた親を誰が介護すべきか、ということは、現在の日本の家族のなかでありふれた問題になっている。かつては、長男を中心とした息子とその配偶者が介護すべきであるという観念があった。つまり、男系の原理で、財産などへの権利とともに、両親を介護する義務も相続されていた、ということになるだろう。しかし、イエ制度が解体し、少子化が進むと、男系の原理だけでは介護が困難となる場合が増えていると思う。必ずしも息子がいるとは限らないし、また、その息子が配偶者を持っているとも限らない。また、息子の配偶者にも、自分の配偶者の両親の介護する義務があるのか、という点に疑問を持つ場合もある。
この日本の家族をめぐる変化は、天皇の継承の問題と共通している。現在、権利、義務ともに、女系相続が一般化しつつある。おそらく、時間をかけていけば、天皇の女系相続に対しても、自分たちの家族の状況と照らし合わせ、十分な共感が得られるようになると思う。しかし、女子女系相続が認められたとしても、それだけで皇室の危機が解決するわけではないと思う。