近代化と伝統の再編成

ここのところ、「伝統」とはなにか、ということについて考えつつ、本を読んでいる。
今の私は、「伝統」についてこんな仮説を持っている。
「伝統」が「伝統」として認められるためには、実際に古くより伝えられたものである必要はなく、伝えられたものという印象がありさえすればよい。「伝統」という印象を与えるためには、歴史的な要素が活用されるが、あくまでも現在の観点から恣意的に再編成されたものである。実際に古くより伝えられているものは、その「伝統性」が強調されることが少ない。「伝統性」が強調される「伝統」は、実際には古くより伝えられているものではない。
こんなことを考えるきっかけのひとつは、結婚式だった。自分が結婚するとき、神式の結婚式の由来を調べたことがあった。神式の結婚式は、明治時代にキリスト教式の結婚式を参考にして発明されたものだという。たしかに、神主が式を主宰し、神前に結婚を誓うというスタイルはキリスト教の結婚式と同じ構造である。神式の結婚式には、伝統的であるかのような要素がちりばめられているが、キリスト教の結婚式を枠組みとして再編成されたものである。民俗学の教科書にでてくる日本の婚姻の際の儀礼には宗教的な要素はないと言ってよい。
以前の日記(id:yagian:20060504:1146749254)にも書いたが、明治維新以後、日本が近代化される過程で、さまざまな「伝統」が再編成されている。例えば、「王政復古」である。王政復古というと、幕府が大政奉還によって朝廷に政権を返上した結果、朝廷を中心とした政府が成立したという印象を受ける。しかし、実際には、摂関制度がクーデターによって廃止され、それよって、征夷大将軍、幕府もあわせて廃止された。明治新政府は、天皇をいだいているという点では、それまでの朝廷と連続性があるものの、天皇の存在以外には実質的には刷新されている。もちろん、天皇についても、儀礼や役割について、明治前後で断絶がある。「王政復古」という言葉からは、伝統的な天皇制が復活したような印象を与え、断絶を覆い隠しているけれど、実際には、明治新政府は復古ものではなく、まったく新しい体制である。
明治時代に再編成されたさまざまな「伝統」について調べていると、江戸時代の国学が基礎となっていることが多いことに気がつく。国学には、実証的なアプローチなど「近代的」と見える要素がある一方で、日本の古代の歴史、伝統の再編成を進めている。国学の近代性は、西洋からの影響なのか、それとも、西洋とは独立したものなのかに興味がある。
そこで、本居宣長とその周辺に関する本を徐々に読み進めている。今は、丸山真男「日本政治思想史研究」(東京大学出版会 ISBN:4130300059)に取りかかっている。丸山説に従えば、国学の「近代性」は、荻生徂徠によって準備されたもので、西洋からの影響ではない、ということになる。「日本政治思想史研究」には、興味深い点が多々ある。また、来週の週末ぐらいにでも、まとめて書ければと思う。