私の「三丁目の夕日」
先日、実家に帰ったついでに、祖父が住んでいた家に行ってきた。
父は次男坊で、祖父の住んでいた家の隣に住んでいる。実家の玄関から出て、塀のくぐり戸を抜けると、祖父の住んでいた家の勝手口がある。小さい頃、勝手口から台所を抜けて、祖父がいた四畳半の部屋に入り浸っていた。
祖父の家は、大正の頃に立てられた、いわゆる「文化住宅」である。いちおう洋式のドアがついた玄関があり、玄関の脇には洋室があった。しかし、そのほかの部分は純和風で、縁側があり、ふすまをはずすと柱と床と梁と天井の骨組みだけになる家である。
四畳半の部屋には、炬燵と火鉢があり、その横に万年床がしいてあって、祖父はいつもそこにいた。将棋をすると、祖父はいつも中飛車で、中飛車対策を覚えると簡単に勝てるようになった。祖父は、わら半紙に鉛筆で大きな丸を書き、山手線の駅の名前をひらがなで書いた。「ゑびす」の「ゑ」の字が読めず、「え」と読むんだと教えてもらった。古新聞で、習字をならったこともある。
万年床で祖父の横に寝転びながら、テレビで相撲を見ることもあった。祖父のひいきは高見山だった。祖父は、ちょっと変わった人だったけれど、偏見はあまりなかったように思う。寝転がって見上げると、古い家だったから天井が黒くなっていた。天井が黒いというと、祖父は、黒いなぁといって、しばらくしたら真新しい天井に張り替えた。
勝手口には、毎日、御用聞きがやってきた。魚屋のイクオちゃんが、午前中に、竹の皮に書かれたお品書きを持ってきて注文を聞き、夕方には桶に魚をいれてやってきた。御用聞きのときに祖父の家にいるときは、食べたい魚の注文をしていたような覚えがある。
火鉢はおいていないけれど、その四畳半は今も当時のままだった。