マカロニ・ウェスタン

ー「ダーティ・ハリー」の結末について記述があります。ご注意ください。ー
先日、関西旅行をした時に、京都一乗寺にあるつれあいがお気に入りの本屋・雑貨店の恵文社に寄った。ここの品揃えはなかなか面白く、毎回思わぬ本を買ってしまい、旅行中なのに荷物が重くなって困ることになる。
今回は、棚に並んでいた中条省平の評伝「クリント・イーストウッド」を衝動買いしてしまった。帰りの新幹線の中でこれを読んでいたら、クリント・イーストウッドの映画を系統的に見直してみたくなった。しばらくの間休会していたTsutaya Discusに復帰して、最初期のマカロニ・ウェスタン三部作、「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」と「ダーティハリー」を見た。
たぶん小学生の頃だった思うが、土曜日か日曜日の昼間の時間帯、東京12チャンネルの埋め草番組として、よくマカロニ・ウェスタンをやっていたことがあった覚えがある。クリント・イーストウッドの名前を知らずに、「夕陽のガンマン」に強烈な印象を受けた記憶がある。クリント・イーストウッドが出演しているマカロニ・ウェスタンだけではなく、リー・ヴァン・クリーフフランコ・ネロの出演作も放映していたと思う。どの作品も、暑くてほこりっぽい街に、むさ苦しいひげ面の男たちばかりが出ていて、どれがどの作品か、記憶が混乱していた。
改めて三部作を見直してみると、「続・夕陽のガンマン」がいちばん気に入った。
「荒野の用心棒」は、黒澤明の「用心棒」のかなり忠実なリメイクなだけに、どうしても本家と比較して観てしまう。本家の「用心棒」は、ユーモアと人情があって、不思議と明るい映画である。例えば、三十郎が借金のかたにとらわれている女を助け出し、夫と子供とともに早く逃げるように促すシーン。三十郎は女と夫と一緒にいるところを見つかると困るから、早く逃げるように促すが、女と夫はいつまでも土下座して感謝して、なかなか逃げようとしない。ユーモアと、人情味と、サスペンスがあるいいシーンである。
クリント・イーストウッドの「荒野の用心棒」では、本家の「用心棒」に比べると、武器が飛び道具になっていることもあって、非情さの度合いが増していて、ユーモアや人情味に欠けている。その非情さにひかれるファンもいると思うけれど、非情さ一辺倒で深みが足りない印象である。「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」になると、非情さに加えて乾いたユーモアが加わって、クリント・イーストウッドの演技にも余裕がでてくる。
「ダーティ・ハリー」は1971年の作品だが、この時期、1968年にはスティーブ・マックィーンの「ブリット」、同じく1971年にはジーン・ハックマンの「フレンチ・コネクション」、1974年にはジャック・ニコルソンの「チャイナ・タウン」と、実に大人っぽく、格好のいいアクション映画が作られている。
「ブリット」はマックィーンのスマートさ、「フレンチ・コネクション」はジーン・ハックマンの存在感の迫力、「チャイナ・タウン」はロマン・ポランスキー演出の様式美が印象的だ。これらの三作と比べると、「ダーティハリー」そのような予定調和的な格好のよさや美しさというより、苦みが特徴のように思う。クリント・イーストウッドが演じるキャラハンが、殺人犯が持っているスーツケースか確かめるためにアパートの中を覗き込んでいると、覗き犯と間違われて一般市民に殴られてしまう。キャラハンは格好いいばかりではない。こんな場面は、前述の三作では考えられない。そして、最後に殺人犯を撃ち殺すが、完全なカタルシスは得られない。市長からの命令に反していたキャラハンは、殺人犯を撃ち殺した後、苦い表情をしたまま、警察バッジを池に投げ捨てるのである。
「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」では、非情さに加えた乾いたユーモアが映画の深みを増していたが、「ダーティハリー」では、ハリー・キャラハンのダーティな苦み映画の深みを増している。「ダーティ・ハリー」の子孫である「リーサル・ウェポン」や「ダイ・ハード」には、そのような深みはない。

クリント・イーストウッド―アメリカ映画史を再生する男 (ちくま文庫)

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