「いまここなる」現実の重視

丸山眞男「忠誠と反逆」を読み終わった。昨日の日記(id:yagian:20101107:1289082990)の続きを書こうと思う。
まず、例によって引用しようと思う。丸山眞男は、日本の「古層」にある歴史意識について、次のように書いている。

 こうして「いまここなる」現実の重視は、仏教とキリシタンという二つの世界宗教の「否定の論理」の否定から出発した江戸時代の思想的文脈においては、(イ)空虚な観念の弄びに対して経験的観察を強調する際のみずみずしさと、(ロ)所与の現実に追随する陳腐な卑俗さと、この両面をたえず伴い、しかもその両者が同じ人間の内面に微妙に交錯するのは、ほとんど避けがたい運命であった、といわなければならない。
「歴史意識の「古層」」(p419)

昨日の日記で、アメリカ大使館でのコメの自由化に関する問題を話し合ったことを書いた。私は、現実に即してアメリカの利益になる方法を考え、提案した。しかし、アメリカ農務省の担当者は、これに対して、原理原則を主張した。
私は、自由貿易という原理原則が空虚な観念の弄びとまでは思わないけれど、それよりは、アメリカのコメの競争力とカリフォルニアの農家の利害という「いまここなる」現実を重視した。それは、観念よりは経験的観察を強調し、そして、所与の現実に対して追随していた。
一方、アメリカ農務省の担当者は、「いまここなる」現実をより普遍的な原理原則によって否定していた。
自分の発想が、丸山眞男が書く「歴史意識の「古層」」に符合していた。日本の外交政策とそれに対する日本国民の期待と反応を見ていると、仏教やキリスト教のような普遍的な原理を主張し、基づくことには関心がなく、「いまここなる」現実をうまく切り抜けることに注力していると思う。このような「国民性」とは、どのようにして伝統となるのだろうかと不思議に思う。

忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相 (ちくま学芸文庫)

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