村上春樹のカタルーニャ国際賞スピーチと原子力発電

村上春樹カタルーニャ国際賞のスピーチ「非現実的な夢想家として」を読んだ(http://goo.gl/jQFu9)。
私の現時点での原子力発電所への考えについて「原子力発電所について」(id:yagian:20110606:1307308292)についてに書いた。村上春樹も私も結論としては原子力発電へ反対というところは共通しているし、真摯なスピーチだと思うが、そこまでの論理の経路が大きく違っている。
オバマ大統領の「核廃絶演説」には強く共感するし、広島、長崎への原子爆弾投下は悲惨で倫理的に許しがたい行為だと思う。また、日本における原子力発電は本質的に解決できない多くの問題を抱えていると考えている。しかし、いわゆる「反核」運動には違和感を感じてきたし、このカタルーニャ国際賞のスピーチに感じる違和感はそれと共通している。
違和感を感じる部分は二つある。

何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

理由は簡単です。「効率」です。

原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

私は電力会社は、トータルとしてみれば原子力発電所を必ずしも「効率」のよい発電方法だと考えていたとは思えない。
原子力発電所を建設するには、普通の発電所を建設することに比べれば多大な対策費を使い、村上春樹がいうように「メディアを買収」するために多大な広告宣伝費を使い、核廃棄物や廃炉の処理には莫大な経費がかかることはわかっていたはずだ。そして、仮に事故が起こればどれだけ大きな被害、影響が及び、それに対する莫大な負担が生じることも。
それでは、なぜ、電力会社は原子力発電所を作り、運転しているのか。
理由は簡単だ。「国が原子力発電を推進したから」だ。
原子力発電所はトータルとしてみれば「効率的」ではない。実際、すべての負担を電力会社が負うとすれば、経営判断として原子力発電に投資できるとは到底思えない。実際、今回の福島第一原子力発電所の事故の賠償も、国が肩代わりすることになっているから東京電力は存続することができるけれども、そうでなければ倒産している。
国が国策として原子力発電を選び、本来は電力会社が負担すべき費用を税金でまかなった。そして、電力会社も民間企業とはいえ、政府の強い影響力の元にある。だから純粋な民間会社ではやれるはずもない原子力発電が選択された。
原子力損害の賠償に関する法律」(http://goo.gl/wAEHF)にはこのように書かれている。

(無過失責任、責任の集中等)
第三条  原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。

つまり、この法律では、実は今回のような事態を想定しており、電力会社を免責するような制度を作っている。
原子力発電について」にも書いたけれど、私はハイエク保守主義者である。少数の人々による理性的な判断には必ず限界があり、信頼してはならないと思っている。それよりは、伝統や市場のような集合知の方がよりよい選択ができると考えている。もし、国が原子力発電を推進する政策を取らず、原子力発電に対するさまざまな優遇措置を行わず市場を歪めなかったら、原子力発電のリスクが正当に評価されて、選択されなかったと考えている。

我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

私は、原子力発電の問題と原子爆弾による「核に対するアレルギー」を結び付けたくないし、原子爆弾と被爆者に関する倫理観のレベルで考えたくないと思っている。
もちろん、原子力発電をめぐって非倫理的な側面がある。過疎の地域に莫大な補助金を引き換えに危険性を押し付けているという構図、潜在的な危険性があることを認識しながらも安全性を強調したキャンペーン、原子力発電所の立地をめぐる不明朗な資金の流れ、最下層の原子力発電所の労働者の被爆を前提とした運転、核廃棄物の処理の見通しが立たないまま見切り発車の運転、「原子力村」と呼ばれる政官民の癒着など。
しかし、これらの問題と原子爆弾による「核に対するアレルギー」は結びつくのだろうか。私は違う問題だと思っている。そして、似たような問題に対して、このようなアプローチで防ぐことはできるのだろうか。私は疑問を感じている。
日本は原子爆弾を投下された。そして、地震国でもある。日本が原子力発電所の立地に適さない地震国であることと被爆の経験があることは無関係である。日本以外にも原子力発電所の立地が適さないところはいくらでもあるが、それらの国は何を歯止めにすべきなのだろうか。
非倫理的という意味では、チェルノブイリ事故を引き起こした経験がありながら原子力発電プラントの輸出に積極的なロシアは非難されるべきだと思う。彼らは自らの原子力発電の技術の安全性を十分に吟味しているのだろうか、そして輸出先の国において安全な運転が確保されることを評価しているのだろうか。そして、同じことは日本の原子力発電プラントのメーカーにも当てはまることだと思う。
また、原子力発電所を導入しようと考えている新興国に対しては、ほんとうに適切な選択をしているのか、原子力発電をめぐる日本の教訓を提供すべきだと思う。
いまはまだ、私は日本が原子力発電に踏み込んでしまった経緯と原因について理解していない。そしてそれは如何にして止めることができたのか、また、同じような問題に対してどのような教訓を得ることができるのか、考えてみたいと思う。
また、いずれこのウェブログに書いてみようと思う。