「市場の倫理 統治の倫理」
1. ジェイン・ジェイコブス「市場の倫理 統治の倫理」
ジェイン・ジェイコブス「市場の倫理 統治の倫理」を読了した。
3.11以降、民主主義について考えて続けているけれど、いろいろと示唆に富む内容だった。
この本のエッセンスを強引に要約するとこんな風になるだろう。
一般的に言われている徳目を集めると相互に矛盾している事項も多い。しかし、注意深く分類すると、商人・市場の倫理と貴族・統治の倫理に分けることができる。それぞれのグループ内の徳目は矛盾せず、それぞれの倫理体系となっていることがわかる。
商人・市場の倫理と貴族・統治の倫理が混交されることによって腐敗が生じる。このため、二つの倫理を峻別することが重要である。
二つの倫理を峻別するにはカースト制と倫理選択の二つの方法がある。カースト制は商人・市場の倫理に従うべき人と、貴族・統治の倫理に従うべき人を社会的に切り離す方法。倫理選択は個人がその場面に応じていずれかの倫理を選択するという方法である。
現代社会においては倫理選択が望ましいが、この方法は個人に高い道徳意識が求められる。
市場の倫理、統治の倫理についてイメージしにくいかと思うので、この本の冒頭にそれぞれの徳目が整理されているから、その一覧表を引用しよう。
<市場の倫理 統治の倫理>15カ条
市場の倫理
- 暴力を締め出せ
- 自発的に合意せよ
- 正直たれ
- 他人や外国人とも気やすく協力せよ
- 競争せよ
- 契約尊重
- 創意工夫の発揮
- 新奇・発明を取り入れよ
- 効率を高めよ
- 快適と便利の向上
- 目的のために異説を唱えよ
- 生産的目的に投資せよ
- 勤勉なれ
- 節倹たれ
- 楽観せよ
統治の倫理
- 取引を避けよ
- 勇敢であれ
- 規律順守
- 伝統堅持
- 位階尊重
- 忠実たれ
- 復讐せよ
- 目的のためには欺け
- 余暇を豊かに使え
- 見栄を張れ
- 気前よく施せ
- 排他的であれ
- 剛毅たれ
- 運命甘受
- 名誉を尊べ
2. ウォーレン・バフェットと「企業の社会的責任」
この二つの倫理の内容とそれを峻別する倫理選択について読んだとき、まっさきにウォーレン・バフェットと「企業の社会的責任」(CSR: Corporate Social Responsibility)について連想した。
最近はあまり耳にしなくなったけれど、「企業の社会的責任」(CSR)に議論を聞いて、欺瞞的だとずっと考えてきた。
確かに、営利企業であっても擬制的に人格が認められる「法人」だから、法規制を遵守する義務がある。その意味で、営利のためであれば何をしてもいいという訳ではない。しかし「法人」という人格はあくまでも契約を締結するための擬制的なものであり、営利企業が選挙権を持つ「市民」という訳ではない。「企業市民」という言葉があるが、これは誤解を招く言葉だと思う。「企業」は民主主義政体に参加する権利はないからけっして「市民」ではない。
「企業の社会的責任」(CSR)の議論では、営利企業にも積極的に社会に貢献することを求める。しかし、どう考えても「積極的に社会に貢献」することが求められる根拠がわからない。出資者によって「営利」を目的して設立された団体である「営利企業」は、法規制を遵守さえすれば営利を追求してなんの問題もないはずである。また、何らかの意味で社会的な貢献をしているからこそ利益を得ることができるのであって、営利の追求は社会的貢献そのものと言えるだろう。
また、出資者が営利を追求すること以外に社会に貢献することを求めている場合には、そのような活動をすべきである。しかし、そうではない場合には、経営者や社員が企業のリソースを使って営利に結びつかない社会貢献をするのは、一種の「横領」ではないかと思う。
営利企業は「市場の倫理」に基づくべきで「生産的目的に投資せよ」と思う。社会貢献は「統治の倫理」の「気前よく施せ」という徳目に属し、営利企業とは別の主体が担うべきだと思う。
その意味では、投資銀行家として営利を追求して世界で有数の資産家となったウォーレン・バフェットが、企業活動と一線を画して個人としてやはり世界で有数の慈善事業家となっている。この二つの立場の使い分けはよく理解できる。
どうやって、何に対して社会貢献するかは、個人としての「市民」の価値判断の領域に属する。「営利」を目的とした集団が、どうやって社会的な価値判断を下せるのか理解できない。311のあと会社を通じた募金の呼びかけがあった。「社員」への呼びかけなのか、会社に属する「個人」への呼びかけなのかがよくわからなくて気持ち悪かった。
3. 「企業・市場・法」「市場の倫理」の海の中の「統治の倫理」
「市場の倫理」に従うべき営利企業において、往々にして「統治の倫理」との混同が起こり、腐敗が発生するのは、企業は対外的には「市場の倫理」で行動すべきであるが、対内的には「統治の倫理」で統制されているからだと思う。
ロナルド・H・コースは「企業・市場・法」のなかで、なぜ「市場」のなかに「企業」が存在するのか、と言う問題について論じている。意表をつくが、非常に本質的な問題設定だと思う。たしかに、市場が完全であれば、「企業」などという組織を作る必要がなく、すべてのリソースは市場から調達すればよい。
コースの回答を少々長くなるけれども、引用したい。
企業を設立することがなぜ有利かという主要な理由は、価格メカニズムを利用するための費用が存在する、ということにあるように思われる。生産を価格メカニズムを通じて「組織する」ことにともなう費用のうち明白なものは、関連する諸価格を見つけだすための費用である。この費用は、この情報を販売する専門家が現れることによって削減されようが、完全になくなってしまうわけではない。また、市場で生ずる各々の交換取引の際に、それぞれについて交渉を行い契約を結ぶための費用も考慮されねばならない。…企業が存在する場合には、契約はなくなるのではないが、大幅に減少する。生産要素(あるいはその所有者)は、同じ企業のなかで協働する場合には、この協働が価格メカニズムの作動の直接の結果としてなされる場合に当然必要となる一連の契約を、他の生産要素との間に結ぶ必要はない。…その契約とは生産要素がある範囲のなかで、ある報酬の対価として(それが固定給であれ変動給であれ)企業家の指示に従うことに同意する、というものである。この契約の本質は、企業家の権限の範囲を明確にしさえすればよいという点にある。その範囲のなかでは、それゆえ、企業家は他の生産要素に命令することができる。
「企業家は他の生産要素に命令することができる」が、それは当然ながら「統治の倫理」に基づくものとなる。しかし、それはあくまでも「企業家の権限の範囲を明確にし」、価格メカニズムを利用するための費用を節減することが目的である。その「権限の範囲」が不明確になると、両者の倫理が混同される。
前節で例にあげた震災に対する寄付の要請は、私から見れば「権限の範囲」の大きな逸脱である。その逸脱は、本質的には、会社ぐるみの選挙運動と変わらない逸脱である。
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