暗い話を聞きたいが 笑って聞いていいのかな
以前もこのテーマについて書いたことがあるけれど、うつ病の人に「がんばれ」と言ってはいけないとよく聞く。
うつ病者としての私の立場から言えば、「がんばれ」という言葉をかけてくれる人は元気づけようを思って言ってくれているということはよくわかるからべつに悪い印象は持たないけれど、あんまり私自身の気持ちは理解してもらっていないんだろうなとは思う。
調子が悪いときには、ベッドから起き上がれないことがある。心のなかでは、ベッドで寝ている場合ではない、あれをしなければ、これをしなければと焦っている。そんな時、「がんばれ」と言われると、どう「がんばって」いいかわからないから困っているんだけどな、と内心ひっそりと思う。
うつ病もベテランの域に入ってきた今では、調子の悪い時はどうしようもないからぐったりとしているしかない自分をそのまま受け入れることができるようになってきたけれど、昔は会社に行けずベッドの上でゴロゴロしている自分に罪悪感を感じていた。身体がだるいことも辛いけれど、その罪悪感も辛かった。
3.11以降、震災の被害にあわれた方に向けて、いろいろなメッセージが発せられている。その多くは、「がんばれ」系のメッセージだったりする。もちろん、「がんばれ」というメッセージを聞いてほんとうに勇気づけられる人も多いのだろうから否定はしないけれど、しんどい時の私と同じように「がんばって」と言われてもな、と思う人も多いのではないかと想像する。
「がんばれ」系のメッセージを聴いていると、二つのことを思う。
親切の押し売りとまでいうと言い過ぎだとは思うけれど、「がんばれ」という自分の善意に疑問を感じていないんだろうな、と思う。その善意が目隠しになってしまい、相手の人のことを理解することの妨げになっているのではないか、とも思う。
もう一つは、「がんばれ」系のメッセージは紋切り型になっているな、ということである。テレビでいろいろな人が「被災された方に勇気をあげたい」ということを語るけれど、決まり文句になっていて、一般的な「善意」ではないその人自身のほんとうの気持ちがいまひとつ伝わってこないなと思うことがある。
最近、星野源「くせのうた」をよく聴いている。
そのなかのこの一節が気に入っている。
暗い話を聞きたいが 笑って聞いていいのかな
苦しい立場にいる人がいるとする。普通の人間の情として、なにかできることはないかと思う。まずは、相手は何に苦しみ、何を感じているのか知る必要があると思う。一方で、なにかできることはないか、と思う自分と相手との関係も振り返って考えてみたりする。
そういうことをあれこれ考えていると、「暗い話を聞きたいが 笑って聞いていいのかな」ということになるように思う。
うつ病患者一般のことはわからないけれど、少なくとも自分は「がんばれ」と言われるよりは、「暗い話を笑って聞いてほしい」と思う。被災者の人も同じように感じているひともいるんじゃないかなと思う。