為末大「走りながら考える」

為末大Twitterをフォローしていて、彼のつぶやきには共感するところが多かった。本屋で彼の本が平積みになっているのを見かけて手にとった。
いつも気になった言葉があったページの角を折りながら本を読んでいる。この本のずいぶんたくさんのページの角を折ってしまった。その言葉のいくつかを引用したいと思う。

■「自分」をあきらめない。立ち上がった瞬間が自信になる

  • 本番で勝負強い選手は、自己肯定感が強い。…目指す目標が高い人ほど、ほとんどの努力は無に帰する。だからこそ負けてももう一回やればいいんだ…と思えることが大事で、こういう感覚を学ぶには、やっぱり実際に負けてみるしかない。挑んで、負けて、また立ち上がる。立ち上がった瞬間、自己肯定感が磨かれる。

■自分で選んだものは、失敗や反省も含めて、濃い

  • ひとつだけ明確なのは、失敗も成功も自分で選んだものは最初から最後まで自分の責任であるということ。選んだのは自分自身で、そのことに腹をくくれる自分でいたら、人は間違いなく成長できる。

■どうてもいいこだわりを、いかに減らせるかが成長の鍵

  • 本当に大事なことを突き詰めるには、こんなふうでいたい、こんなふうに見られていたいという欲望との決別が必要になる。そして成長を妨げるこだわりから解放され、ある意味「なりふり構わない自分」になるには、素の自分をさらけ出すことが必要なのだ。だからそういう意味で小さなつまらいプライドを捨てきれない人は、結局勝てないのだと思う。

■ありのままでいることは結構難しい

  • 自分を許すということの本質は、相手に期待しないとうこと。相手に愛してもらわないと自分には価値がない。そう思い込むことをやめてみる。そして、自分で自分自身を愛するように努力してみよう。他人が自分を肯定してくれるから自分は素晴らしいと思っている間は、残念ながら満たされない。

■残念ながら「やればできる」は幻

  • 始めのうちはその言葉を胸に頑張れるけれど、そのうちに、どんなに頑張ってもどうにもならないものに出合ってしまう。…「やればできる」という姿勢は、結果責任が個人の努力に向かいやすい。…夢を持つこと、そしてチャレンジの推奨に大事なのは、結果をその人の責任にしないこと。力を尽くしてやるだけやったら、あとは自分のせいじゃないと思うぐらいがちょうどいい。

■小さいところで戦っていたら挫折はない

  • やるだけやって、どうやってもダメだ、これ以上無理だという体験が挫折である。つまり努力と挫折はセットなのである。…100%全力を出し切ったけれど、どう考えてもこの壁は超えられない。そう思ったときに初めて納得感がでてくる。…挫折経験がある人が優しく見えるのは、自分が弱いことを知っているから。…でも挫折があるからこそ感じる本当の喜びと優しさがある。

■残念ながらほとんどの人生は負けで終わる

  • 世の中の人はほとんど一番にならないにならないのだと思う。…現実を現実のまま見つめることは、緩やかな挫折に近いと思う。…人生は、その緩やかな挫折を受け入れることであり、人生、最後は「負け」で終わる。…僕の競技人生は、まさに「負けで終わった」けれど、幸せな人生だったと胸を張って言える。そう、負けと幸福感は別である。そのことに気づけたのも、ほかならぬ負けて終わったからだと言える。

■夢をもちなさい。たぶん叶わないけれど

  • 「思いは叶う」、そしてそれ以上に「叶わないこと」がある。それでもなお、いかに自分の中の気持ちを奮い立たせるのかは、シエしかない。…夢はもったほうがいい。…何かを乗り越えようと挑むことこそが大事なのだ。…結局のところ、幸福は「今」にしかない。…夢はその「今」を輝かさせるためにあると僕は思う。そしてその輝き自体は、その夢が叶う、叶わないなんて関係ない。

■本当に強いのは、気づいたら努力していたという人

  • 「苦しさ」や「一生懸命」「必死」でやっている人は、「無我夢中」「リラックスした集中」でやっている人にはどうしたって勝てない。…仕事だから苦労もあるし、重圧もある。でも、根本のところで「面白い」と思ってやっている人に、「大変で苦しいけどやるべきだから」と思ってやっている人は、長期戦になるともう絶対に敵わない。

■他人と比較して、自分の勝ちを計るのは無意味

  • あるがままの自分を受け入れた人は強い。…でも、果たしてそのままの自分を受け入れられる人は、どのくらいいるのだろう。…コンプレックスはしょせん人との比較の中から生まれるものだ。…変に理論をこねくりまわさず、「自分自身はこうなるべきだ」とか「こうあるべきだ」もなく、このままの自分として勝てる場所を見据え、自分らしい方向に向かっていけばよいのだと思った。

■「それは自分らしいか」と確認する

  • 人間は、本来自分が持つ方向にしか、成長しない。特に勝負ごとになると、本来の自分の方向に突き抜けたヤツだけが強い。

さらっと「目指す目標が高い人ほど、ほとんどの努力は無に帰する」と書いてあったりするけれど、深い言葉だと思う。おそらく、私がそんなことを言ってもまともに受け止めてくれる人はいないと思う。というのも、私自身、どう考えても目指す目標は高くないし、突き詰めた努力もしていないから。為末大が書くと、本気で世界一という高い目標を目指し、実際にその努力が無に帰したという体験があるから、説得力があり深みが生まれる。
為末大ほどの経験がある訳ではないけれど、私自身の乏しい経験を踏まえても、彼の言っていることは納得できる。
まずはリアルな自己認識こそが出発点だと思う。そこができてないと、どこかで矛盾をきたして破綻をしてしまう。しかし、いちばん難しいところは、リアルな自己認識ができるようになること自体である。たいていはリアルな自己認識ができないまま出発をして、自己認識ができたときには終わっているということが多いのだろうけれど。それもまたリアルな人生の真実なのだと思う。
そして、自己認識に基づいて、他人ではなく自分に立脚すること。「このままの自分として勝てる場所を見据え、自分らしい方向に向かっていけばよい」とほんとうに思う。誰でも「根本のところで「面白い」と思って」やれることはあるはずだし、それを早く見つけ出してそこにエネルギーを集中投下することが重要だ。それを実現するには、他人の目を気にすることをやめて、自分の心の声に素直にならなければならない。
しばらく前、体罰についての論争があった。倫理的な観点からの体罰批判も成り立つと思っているけれど、そもそも体罰はする側も受ける側も時間のムダだと心の底から思う。体罰によって強制しなければならないということは、「「苦しさ」や「一生懸命」「必死」」という側のものであって、「「無我夢中」「リラックスした集中」」にはなりえない。そんなに無理に強制をしてお互いに苦しい思いをするぐらいだったら、それぞれが自分の見つめて、自分自身の選択、責任で行動したほうがはるかに実りが多いと思う。
また別の機会に書こうと思うけれど、為末大の考え方は、仏教に通じているところがあると思う。

走りながら考える

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